テオ・アダム死去

 ※今朝方ブログ書き始めたのですが、文章を纏めていないのに途中でナルコレプシー状態になってしまい、自分でも何をどこまで進めたのかわからないまま眠り込んでしまった。
 先ほど確認したらテーマと関係ない内容ばかりで誤字も多いのに、記憶が飛んだまま公開しているのだから困ったもの。修正し、以下を新しい記事として公開します。
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 次々と巨匠が亡くなってしまう。今度はテオ・アダム
前回のブログ関連から、まずカバリエはマリア・カラスの次世代を継いだ代表的ソプラノ。恐らくマスコミは常にそれぞれの時代に相応しいヒロインとヒーローを期待し探しているもの。それを本人が望んだのか、そうじゃなかったのかは知らないが、ドラマティックな役柄に共通性があればマスコミと世間は注目する。
 チェッケレのような歌手は(一時期カラヤンが利用した?)レコーディングに価値観を見いだせなかったのか、どんなに歌えても名声は日本まで届きにくい存在だった。ただ、どちらにしてもいえることは【歌えれば仕事があった】こと。3大テナーにしても似たような始まりだったはずだけれど、レコードが売れれば莫大な利益が齎されるから、彼ら以上にインパクトのある歌手が登場してもプロダクションのマネージメントや契約会社との折り合いが良好でなければ、劇場通いの常連に評価されつつもほぼ無名のまま歌手人生を終えることになる。
 1月3日にNHKニューイヤーオペラコンサートを聴いた。昔から変化の無いNHK的演出。砂川さんと大西さんが印象に残っているが、最も聴き入ったのは藤村さんのデリラだった。思い返せば細々感想を持っているけれど、どうでもいい気分。(一人酷いソプラノがいたし、もう出ないでもらいたい人もいた。)誤解が生じると困るけれど、あの場にいた人たちだけが日本を代表する歌手ではなく、どこかの国のマイナーな劇場で聴衆の心を捉えて離さないマスコミに無関心な人がいると思う。

翌日、録画しておいたドレスデンゼンパーのジルヴェルスターコンサートを鑑賞。
 メスト指揮の「こうもり抜粋」でカウフマンを聴いた。カウフマンのアイゼンシュタインはイメージができないでいたけれど、表情がスケベな爺に見えてくるのですから凄い。出演者は皆が素晴らしい歌唱。(NHKニューイヤーオペラコンサートと比較にならない。月とすっぽんというか蝶と蛾である。)地元のファンが次期監督として期待しているのか?指揮はメスト。テンポの速さが気になったけれど(いつものことですが)オペレッタの旨味だけ切りとられると、更に加速して感じられ、舞台の面白さとは別に少し煩い音楽に思われた。
 それから、ついでに書いておきますが、東急ジルヴェルスターのカウントダウン。「アイーダ」凱旋の場はドキドキを通り越して笑ってしまった。音楽を時に合わせるのではなく「時よ歩み寄れ!」あまりにも時間に支配されている社会に嫌気がさし悲しみも込み上げてきた。東京フィルの皆様、ラストの17秒間お疲れ様でした。
 僕は番組に若干飽きてきたみたい。


 
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 テオ・アダムの訃報。
 ザックス、ドン・アルフォンソが思い出深い。他にはオランダ人、マルケ王、ミュンヘンでたまたま当日安席を購入した「オルレアンの少女」にも出演されていた。オルレアンのメンバー表、テオ・アダム以外知らない人ばかり?指揮はゲルト・アルブレヒト、演出はクップファー。イメージ 2
 NHKホールのロビーでサインをおねだりしたことも。
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 オペラ以外では数回リートも聴いていて、最後はオーチャードホールでの「冬の旅」だったはず。
 ディースカウのように過度な表現はしない。プライのような美声ではない。ボストリッジのように特殊な世界は微塵も見せない。年老いた紳士がシューベルトの旋律にあわせ淡々とミュラーを朗読をしているように歌い語る。
 たしかシューベルトミュラーは一度も会ったことがなく、同じような世代に生き亡くなり、いつだったか若くありながら年老いてしまう人生もあると学んだ。アダムこそ創作者を代弁するに相応しい達観した声質。つまり真理や道理を悟った表現こそ「冬の旅」に近づける。
 リートが歌えるオペラ歌手は少なく、いつも探している。ゲルネ、ゲルハーハー、エレート、デノケ、それから歌わなくなったシェーファーよ「貴女は今何処にいるのですか?」若手を指導しながら子育てか。youtubeで見た料理番組で感じたのは、確実に僕の方が美味しいもの作れる(悲) 
 ふと思ったのは、「冬の旅」に関しては、アダムとシェーファーに共通項を見出した気分。全く似ていない表現だけれど、朗読を文化教養とするドイツ精神のあらわれなのかもしれない。そう基本は言葉にある。同じような色彩と香りが感じられるがちょいと説明が難しい。
 カウフマン、フォークト、ベチャワのリート挑戦は好ましいが、なにか大切なものが足りないように感じている。
 皆最初から美声なのに更に上手く歌おうと努力しちゃう。つまりリートに関してはまだまだ不器用。詩心より声を優先させる。彼らはオペラだけでいい。


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 youtubeで見つけた1976年7月23日バイロイト音楽祭ニュルンベルクのマイスタージンガー」3幕のお仕舞いのシーンが聴ける。頭に何故か単独演奏の前奏曲がある・・ザックスの家から歌合戦への間奏曲が終わり、そのあとのざわざわしたお祭りシーンからラストまでの約50分。カール・ベームの指揮でコロがワルターなんてことがあったなんて知らなかった。取り立てて凄い演奏でもありませんが、舞台を想像しながら聴いていると主役陣の表情が見えてくる。そして意識は高揚する。「目覚めよ」の合唱でのザックスは、次世代ヴァイクルのように恥ずかしそうな演技に非ず、アダムは威厳ある職人として民衆を見つめているよう。ベックメッサーのいざこざも軽く交わし数秒で信頼を回復。ワルターは若き日のコロだから見事。調子が良すぎたのかラストで若干声が上ずるがこれもライブならではの面白さ。それよりもワルターが小さな舞台に上がる瞬間の足音まで聞き取れる。
 ウォルフガングから「休止符の登壇により聴衆の誰もがワルターだけに注目する」と指示があったのでしょう。
 「私はマイスターにならずに幸せになりたい。」まるで子供のような主張に対して、アダムのザックスは本気で騎士を叱る。恐らくワルターはそっぽをむきながら「うるさいジジイ!」程度の若さと人としての未熟さが露呈。
 あとはどの瞬間にワルターがザックスの主張を素直に受け入れるのか、個々にご判断いただければ。注意深く鑑賞すれば理解できるはず。最後の音までぶれることの無い歌唱は理想的。
 ザックスをマイスターを称える合唱の中ベックメッサーと和解の握手。ザックスは退場せず和の中心で民衆と喜びを共有する。
 音だけからの想像が好きだ。緞帳は下り芝居は終わるけれど、その後ニュルンベルクの広場ではビールとソーセージと煮込み料理。コートナー経営の焼き立てパンを走って運ぶお弟子さんの姿まで見えてくる。
 テオ・アダムは歌の職人であり詩人だった。
 RIP.
 
The Bayreuth Festival of 1976 , the Centenary, started on 23rd July 1976, with a feast concert playing only the Overture and Scene 2 of Third Act of Die Meistersinger. Karl Böhm made his last appearance at Bayreuth, and also it was the last time for the 1968 Wolfgang Wagner's production of  Meistersinger.

Richard Wagner・・・DIE MEISTERSINGER  VON NÜRNBERGHans Sachs - Theo Adam  / Veit Pogner - Hans Sotin / Kunz Vogelgesang - Heribert SteinbachKonrad Nachtigal - Martin Egel  / Sixtus Beckmesser - Klaus Hirte  / Fritz Kothner - Gerd Nienstedt   
Balthasar Zorn - Robert Licha  / Ulrich Eisslinger - Wolf Appel  / Augustin Moser - Heinz ZednikHermann Ortel - Heinz Feldhoff / Hans Schwarz - Hartmut Bauer / Hans Foltz - Kurt RydlWalther von Stolzing - René Kollo / David - Frieder Stricker / Eva  - Hannelore Bode / Magdalene -  Ilse GramatzkiBayreuth Festival Orchestra and Chorus / Karl Böhm, conductor / Norbert Balastch, chorus masterLive recording at Bayreuth Festspielhaus   July 23, 1976