クロード・レジ×SPAC メーテルリンク「室内」
ほぼ1ヶ月間、音楽を聴かず読書もせず食欲もなく、ただ時々真面目に仕事して過しておりました。
しかも日を追うごとにあらゆる欲望が削がれていく感覚で、なんとなくこのままではいけないと考えていた。
特に重症に感じていたのは音楽を受け入れられない現実で、下手したら「必要ない」とまで思ってしまうコンディションの悪さにあって、勿論人生で初めての経験。何故だかわからないけれど音の出るもの全てがノイズに感じられる今日この頃。
久しぶりの舞台鑑賞。
深い感動はなかったけれど、結果として行って良かった。
<あらすじ>
≪夕暮れ、明かりがともり幸せな家族の団欒。庭の暗がりに二人の男。彼らは一家の娘が川で溺死していたことを発見していた。しかし幸福な家族の情景を目にして、娘が死んだことを伝える勇気を失ってしまう。≫という何とも気だるい内容。
お芝居を観る場合は予め原作を読むと決めているのですが、今回に限ってはぶっつけ本番でした。
これまで音楽関係の舞台鑑賞が多かったからなのか、ロビーで若干違和感を覚えたのは、明らかに集う観客の層が異なるということ。良い意味では知的な印象の人種なのだけれど、別の言い方をするならば、世間一般とは別次元の住人みたい。(この人たちはどのような手段で生活しているのだろう?とささやかな疑問。)少なからずこういう友人はいない。
開場は開演直前にチケットに印刷されている整理券番号の順番で呼び出され、皆が綺麗に整列してから劇場(小さなスタジオ)に誘導される。僕のは37番だったのでセンターの比較的良質な席を確保することができました。
関心を抱いたのは咳払いするような人が誰もいない理想の空間で、邪念にとらわれることがなく真正面から作品と対峙できた。
舞台は肉眼で何も見えないほどの暗闇から始まった。
照明も徐々に人物の影が明らかになる仕組みで、そこには装置も何もなく音楽もいっさい使用されず、闇と光そして時折役者により発せられる言葉のやりとりだけ。(もしかしたら言語さえ必要とされなくても芝居として成立するのではないかと感じられた。)役者はスローモーションのようにゆっくりと静かに動く。その動作にも一つ一つ意味があると感じられたのは、どのシーンを見ていてもステージ上の人々の配置が非常にバランス良く全く破綻が生じていない。
普段から個人的にはもっと泥臭く血生臭い肉体のぶつかりあいを求めたくなる興味が優先されるのですが、たまには普段感じることのできない象徴主義のような世界も脳の奥底に宿っていることを確認できた気持ちでした。そして時間が進むにつれて感じたのは聴覚や視覚とは無縁な所謂人間本来の五感とは異なる第六の感性が存在しているいるような印象。
昨年のル・モンド紙には「クロード・レジには世界のゆらぎを感じとらせるために、世界のノイズを消し去る。」と記事にされたとチラシに書かれていた。そこには大いに共感することができた。
帰宅するとき観光客だらけのノイズの溢れる中華街を通過し石川町まで歩いたが、不思議なもので一切の雑音が耳に入ってこなかった。ただネオンが眩しいだけだった。
演出:クロード・レジ
作:モーリス・メーテルリンク
訳:横山義志
出演:泉陽二、大庭裕介、貴島豪、下総源太朗、鈴木陽代、
たきいみき、永井彩子、布施安寿香、松田弘子、弓井茉那、吉植荘一郎
関根響、西川尊(アンダースタディ)
作:モーリス・メーテルリンク
訳:横山義志
出演:泉陽二、大庭裕介、貴島豪、下総源太朗、鈴木陽代、
たきいみき、永井彩子、布施安寿香、松田弘子、弓井茉那、吉植荘一郎
関根響、西川尊(アンダースタディ)