12・27(若さ)
テレビをつけたら高校生女子の駅伝。
若々しく溌剌とした戦いは感動的。
外国籍のランナーも数名いて私立かな、何だかとても速そう。
大学だけではなく高校にまで黒人選手がいるなんて知らなかった。
まるで国際試合みたい。
しかし日本人ばかりの岡山の高校が優勝した。
それを見届け私は年内最後の仕事に向かった。
正確には忘年会や打ち合わせもあるから仕事は少し残っているけれど、私はプレイヤーだから感覚的には今日が結びの印象。
街の飾りつけもクリスマスから一気にお正月の準備にお色直し。
天気は良いけれど風冷たし。
今日の仕事では多少は自分らしさが出せたかな?振り返ればいつもの不安と消化不良はあるけれど、前向き懸命に語ってはきました。
それでも精神的に完結なんて一度も感じたことは無い。
夕方ホテルを出ていつもの神田古書街、半分はシャッターが降り「早く帰りなさい」と街に言われているみたい。
死ぬときは本に囲まれながらという人生目標があるから、時間があれば「読み書き語る」多寡が文庫本でも一冊一冊が残された時間に向けての整理整頓なのです。
帰宅。
またテレビ。
今度はフィギュアスケートの全日本決勝。
丁度最近低迷していた浅田真央のフリー。
何だか解らないけれど、びっくりするくらい感動した。
今年のショパンコンクール優勝者ユリアンナ・アヴデーエワで協奏曲1番。
指揮はデュトワ。
これが今日三度目の感動で決定的だったのだけれど、不覚にも泣きそうになるくらい魅せられてしまった。
それは特に第一楽章でやってきて、理由は恥ずかしいから書きたくない。お許しください。
ただ今日の三つの感動は全てが「若さ」に由来する出来事で更に全員が女性、そこに私はどうしようもないほどの儚さを覚えた。
彼女達には過去からの蓄積や未来に向けられた展望それ以上に才能があるけれど、今だから与えられている、つまり「今しか表現できない世界」、それは努力した人で一定の若さでしか到達できない奇妙な事に何処か脆弱な体質。
それは真の芸術家として成熟を期待する個人的な思いで全体的ではないかもしれないけれど、全て社会の求めに応じる責任はないし、果して今回のN響との共演にしても正しい業績として進化するように、聴き手は感じ取り責任を担う器量を持たなければならない。
巨匠では感じられないこの切ない音楽はなんだろう。