バイエルン国立歌劇場団員約100名来日拒否

 バイエルン国立歌劇場来日公演が近づいてきましたが、ニュースによると団員400名のうち約100名が原発を理由に来日を拒否したそうだ。その間100名には無給で休みを与えるそうである。
 対象はオケのメンバーか合唱か裏方の道具屋か鬘屋か照明係りか私にはどうでもいい。
 つまり上司が「お前ら日本に行かないのなら給料を払わないぞ。」という事みたい。
 今回は前々からそんな話が聞こえてきていたから、私は「やっぱりね。」と、そんなに驚かなかったけれど、中には芸術の質が劣るとかこじつけでNBSもフジテレビと同じと思ってしまって残念に感じているだろうけれど、もしそのように考える人がいるのなら、些か短絡的で論理性の欠如した意見に感じられなくもない。
 私はそんなに悲観する必要はないと思っていて、確かに質の上ではピンチかもしれないが、だいたいにおいてこういう条件が揃った時にミューズは降臨する。
 なんとなく今回のバイエルン公演は歴史的な演奏になるような気がするのです。
 ピンチはチャンスである。
 理想を求めるがあまり完全無欠なブッキングと調整は不可欠だろうし、それも確かに理想ではあるが、真のドラマは間逆の時に起こりうる可能性が高い。
 精神に不安の生じた100人より、エキストラが加わっても舞台に賭ける本気の300人を信頼したいのは、それが芸術創造の本質であり総合芸術オペラなのである。
 演奏に不具合が生じる可能性はあるかもしれないが、音楽が濁るのもライブ特有の緊張感であり舞台が一期一会のドラマである以上、その稀有な体験に立ち会うことが出来ない団員100人は、東京での経験を知らずに時まさにオクトパーフェストで美味いビールを飲みながら仲間と共に楽しい時を満喫、オペラを忘れて過ごすのも、それもまた一つの幸せなのである。
 ボローニャ同様、今一度繰り返すが「彼等はどうやら雇われ意識の強いサラリーマンのよう。」
 何年も前から目標設定が存在しそれに向け仕事を続けてきた以上、戦争だろうが放射線であろうが隣人の死であろうが自分の寿命が短くなろうが「日本公演」が目標である以上芸術を完結させることが人生であり、彼等が求めてきたものは期限とリンクしていない単なる願望に過ぎない。
 彼等だけで芸術創造は不可能であり、勿論確かな職人かもしれないけれど、マイスターではない。
 いい大人がコミットメントの意味すら解っていないのですから、その程度の族にオペラ製作に携わって貰いたくない。
 私は、白鳥の曳く小船に乗るローエングリンがエルザを救いにくる場所が、もし福島だったならどうだろうかと想像した。
 物語では結果カタストロフかもしれない。
 しかしテーマは神による救いである。
 信じることができるのか、信じることができないのか、問いを発するなかれ、それがローエングリンである。
 これだけのことでワグナーが偶然プログラミングされた現実を喜びたい。
 テノールの故山路芳久さんがウイーン国立とバイエルン国立の専属歌手だった時代がありまして、山路氏の母上から、その時代の生活状況を教えていただいたのですが、音楽をそして劇場を愛する歌手にとっては大変に優遇されている環境が整っているのだそうだ。
 オペラ組織は国家の推奨する組織であり、劇場そのものは一つの社会なのである。
 ただ専属歌手である以上何度舞台に出演していても基本としては固定給で、未来を夢み壁を乗り越えたいと挑戦したい真の芸術家は何の保証も無いフリーの道を歩みだす。
 フリーになりバイエルンから別れた山路さんの最後のリサイタルは1988年11月地元の三重県松坂市で行われた。
 命を削るような素晴らしくも恐ろしい歌唱で、その翌月19日に38歳で他界した。
 時同じ11月東京ではバイエルン国立オペラ、あのサヴァリッシュ指揮で「マイスタージンガー」が上演された。
 ヴァイクル、モル、ポップ、コロ、プライ、シュライヤー等の己の芸術と人生に対しコミットした真の芸術家が歴史的な時間を作り上げた。
 あの時に原発事故があったらどうだったか?疑いは持たないではないのですが、それでもきっと出演したと感じるのは、誰だって当時の歌を聴けば解る。
 皆が命を賭けていた。
 今回のバイエルン公演は歌手人が素晴らしい。
 88年公演以上の感動を私は期待している。
 いまこそマイスターの確かな技を信じようではないか。
 劇場に出かけましょう。
 行動です。