小澤征爾&村上春樹対談本

 久しぶりにアンプのスイッチを入れた。
 ベルリンフィルやら色々あったので全く音楽を聴く気分ではなかったが、明け方彫刻刀でレコードに傷をつけ続ける奇妙な夢を見てしまい、聴かないでそのままになっていた東独エテルナのルネ・コロ「ワグナーアリア集」を掛けてみた。
 youtube以外で実に何週間ぶりのレコード鑑賞だろうか。
 このレコードが良い録音なのか何だか解らないが豪快な響きで、若き日のコロさんの歌唱は輝かしく、スイートナー指揮ベルリン国立のいわゆるドイツ的でワグナーらしい音楽。
 アリア集といっても、「ジークフリート」からは2幕の母を思う件だったり、3幕でブリュンヒルデを見つけて「男ではない!」と初めて恐れを感じるシーンだから、完全にお話の途中にある音楽で、そのまま舞台を思い出したりできる好ましさがある。
 珈琲を飲みながらワグナーを真剣に聴き、レコードに傷が無いということと、やはり私は音楽というかオーディオマニアからは対極の場所にいるのかもしれないな、なんて感じたのは素晴らしいから買って良かったけれど、既に知覚している世界であり、これ以上レコードから論理的発展が見出せないような印象だったから。
 レコードはレコードであり機械も機械で、音楽とあんまり関係ないように感じる。
 その後ふらふらと本屋に出掛けた。
 ハルコウさんの記事に書いてあった小澤征爾村上春樹の対談「小澤征爾さんと音楽について話をする」新潮社(税込1680円)を購入しなければと思っていたのです。
 これは季刊誌「モンキービジネス」春号に「一日目」があって、そのまま消滅したかのように読めない状態が続いていたから、先が知りたくて本になるのを待っていた。
 ちなみに「モンキービジネス」は休刊しているみたいで、考えてみたらあんな雑誌を誰が毎回買うのか想像できないから休刊も当然で、いつ消えても仕方がないだろう。
 夕方帰宅しパラパラ読んでいたのだけれど、対談の面白さに関心しつつ、小澤さんと村上さんの決定的な違いが見えてきてドキリとした。
 それは記憶の能力についてである。
 村上さんは何かの出来事について明確な記憶を保持しているように思えるのですが、小澤さんは音楽の世界の達人なのに過去を語るときに曖昧さが際立つ印象があるのです。
 どこ?というより全体的にそう感じた。
 それでも本当にどうでもいい事なら忘れても仕方がないが、自分も人の名前が思い出せない事が時々あるので、若年性アルツハイマーだと真剣に疑ったりするけれど、読めば読むほどに小澤さんが年をとったのだなと思ってしまった。
 こういうことは、ベームが椅子に座ったり、カラヤンが目を開けて指揮したり、バーンスタインがジャンプしなくなったり、最近ならプレヴィンがタイヤの付いた歩行機具を使い舞台に出てきてびっくりしましたが、だいたい指揮者の場合は「舞台」で年齢を認識してきたから、そいつが唐突に本からやってくるなんて考えもしなかった。
 それから、まだ全部読んでいないけれど93頁に書かれていた小澤さんの「レコードマニアみたいな人が嫌い・・」発言には私もニタニタしながら共感してしまった。
 同じような事を時々レコード屋にいる時に感じていて、正直私もマニアに近い音楽好きですが、止めようもうどうでもいいと思う時があるのです。
 その反動がコロのワグナーであり、微妙な感覚だけれど、それだけで忘れがたいレコードなのかもしれない。
 自分の部屋には本やCDなんかが沢山あるのですが、たぶん平気で全部捨てることができる。
 少し前の記事に過去の持ち主について思考し物の価値について考えましたが、この分裂相反する2つの世界を同時に獲得しているのだなと、上手には説明できないけれど、この本を読みながらふと気がついた。
 この発想は前向きなのか退行なのか知ったことじゃないが、これも自分なのだと冷静に確認。