最後から二番目の恋

 震災の特集番組が多くて、津波原発の映像ばかりだった影響なのか文章が書けなくなっていた。
 本も読まないままが数冊あって、音楽は先週レコードを5枚買ってきたけれど聴かないまま。
 仕事は、始めてしまえばスイッチが切り替わる脳になっているし、そうしなければならないから、とにかく今やれることを一生懸命進めている。
 しかし、「書く、読む、聴く」を放棄したくなるとしたら、仕事がどうこうというより人生そのものを否定しかねない現象で精神的に苦しい。
 それでも年に数回は音楽が必要ない期間がやってくるのだから、同じと言えば同じなのかもしれませんが、活字に対しての拒否反応は珍しくて、もしかしたら初めてかもしれない。
 忙しいからとか、疲れているからなら普段から沢山あるでしょうが、本を開いたりCDをセットしたりと基本的な手続きが億劫なのですから重症でしょうか。
 表現が難しいのですが、恐らく未来に対しての絶望感のような感覚なのは、今後も大災害が起こる可能性があるのに個人事業主として労働収入のまま生きていけるのだろうかという心配だったり、月半ばにして来月以降の支払いなどが頭から離れない。
 そう考えたら震災の日の翌日に確定申告なんかした自分が馬鹿なのですが、昨年の今頃は次々と仕事がキャンセルになったと思い出すし、用紙に書かれた数字が益々不安を煽り立て、音楽を聴いたり本を読んだりするゆとりなど無い。
 
 数日前にテレビ見ていたら、佐渡裕さんとピアノの辻井さんが(あれはパリ?)追悼の演奏している映像が出てきて、きっと素晴らしいコンサートだったのだろう。
 それと震災とは関係ないけれど、チョン・ミュンフン仏蘭西北朝鮮の合同演奏会みたいなことをしていて、これまたヒューマニズム溢れる素敵な社会活動なのだろうと表層的には感心しつつ、個人主義と独裁国歌が一緒に演奏したらちょうどいい音色になるかもしれないなんて馬鹿らしい事を考えた。
 いずれにしてもメディアが素晴らしいと報道しているニュースを根底では否定していないし、私は平和主義者なのだけれど、この2つの演奏会に対し、ある種どうすることもできない、遣る瀬無い「胡散臭さ」を感じてしまった。
 つまり、ああいう形で音楽が利用されることが嫌いであり、ああいう指揮者が嫌いということ。
 反論する人も多いと思いますが、泣きそうで苦しそうな顔を見たくない個人の生理的な問題であり、反人道的な立場なはずもなく、最初からブログは独り言みたいなものである。
 
 ところで、NHK「中学生日記」の最終回を見た。
 子供のころ、日曜日の昼間に放送していた記憶があって、私は当時小学生で、数年後には受験やら面倒な人間関係が訪れるのだと未来に向けられた思考とリンクしていた。
 それで中抜けしすぎていて可笑しいのですが、次に見たのが最終回だから、番組が続いていた現実もそうだけれど、よくもまあ途中で一回も見ないで生きてこれたもんである。
 番組のテーマは「死」で、なんだか解らないけれど死にたがっている卒業前の男子がいて、同級生の女子が川原で彼を殴り「どうだ、痛いだろう!死ぬのはもっと痛いんだぞう!」とか言いながら驚くほどの下手な演技で救いの手を差し伸べる。
 担任の先生が生徒を信じ待ち続け、そこに彼は遅れてやってきて「僕は生きてみる。」と意志を伝え、その女子がステージに上がり指揮を始めて最後同級生全員で歌う。
 あまりの凄い内容に吃驚したのですが、あの時(つまり小学生の自分)に明るい未来を意識させていた番組が「これ?」だったとしたら、少なからず私は過去にそのような経験をしたことは一度もなく、噂でも聞いたこともないから、受信料を取る国営放送はそうとうなもんで、もうテレビを見るの止めようかなと真剣に思うくらい。
  
 そんな現在、私は一つの番組に救われた気分になっている。
 正直、完全に救われてはいないけれど傷んだ心に具合がいい。
 なんで最初から見なかったのか悔やまれるが、「最後から二番目の恋」というフジテレビのドラマである。
 ちなみに今週で終わる。
 こういうドラマはあんまり関心を持たないのだけれど、ロケ地がたまたま鎌倉だから興味半分で見てみたら実に面白い。
 登場人物たちが同世代で、しかも自分と似たような事に悩みながら生活しているのだから、妙な勇気を貰った印象で、我々の世代って悪くないし、年を重ねるって素晴らしいと感じられた。
 いつも歩いているような場所が多く出てくるのだけれど、いつ撮影していたのか全く気がつかなかった。
 知らないうちにドラマが完成していたことで、近所に小泉今日子さんが住んでいるのだと思えばいい。