訃報 押花
NHKお昼のニュースで吉田秀和先生の訃報にふれた。
22日にご自宅でお亡くなりになったとのこと。
ご高齢ですし、いつかくるとは思っていましたが、どうすることもできない悲しみに襲われて息苦しくなってしまった。
何をどうしたらいいのか解らないまま、家人と口も利かず自室に座り込んで「ロ短調ミサ」のCDを聴いた。
困った事に午後から仕事が入っていたので、気持ちを切り替えることだけに集中した。
1時間後、僕は鎌倉駅に向かうバスから外の景色を眺めていた。
どこも観光目的の人が多く、皆嬉しそうな表情で散策しているいつもの日曜日の光景。
八幡様の手前細い路地に入っていくと吉田先生のご自宅がある。
僕は駅から電車に乗り仕事先の最寄り駅で下車。
柔らかな光と風に枝葉を揺らす情景が見えるように歌うディースカウの声。
ディースカウを初めて聴いた時、「こんなに上手い歌手がいるんだ。」と思ったのだけれど、あることがきっかけで苦手な演奏家になってしまった。
心の中で聴いた音楽なのに思い出すこともある。
20代になった頃、当時お付き合いをしていた女性とディースカウのリサイタルに出かけた。
全てのプログラムを聴いた。
もうどの日だか憶えていないけれど、近くに身障者の人がいた。(正確にはサントリーホール1階の車椅子用スペースの後ろに僕らの席があった。)
車椅子の男性はじっとしていることができないみたいで、時々身体を動かしながら物音を立てた。
終演後、彼女は「ああいう人は演奏会に来ないで欲しい。」と言葉にした。
僕は驚いて言葉を訂正するように求めた。
それに対し、「吉田秀和は書かないかもしれないけれど、誰かがこのことをきっと書くと思う。」と返してきた。
それがきっかけだといっていいと思うのだけれど、とにかく僕はその女性と別れた。
そして、可笑しな話ですが、あれからディースカウが聴けなくなってしまった。
勿論吉田先生はそのことについて記事にしていない。
ところが数ヵ月後、ある音楽誌に車椅子の男性がメニューヒンと並んでいる写真がアップされていて、「あの時の人だ。」と直ぐに気がついた。
メニューヒンが51年に初来日した際に、戦争で父親を亡くした少年が靴磨きをして貯めたお金でリサイタルのチケットを購入しようとしていた。メニューヒンは彼にバイオリンをプレゼントした。(調べたら本になっているようです。嘘のような実話。)
その写真は再会時の様子。弦は切れていたが、どんな壁にぶつかってもバイオリンだけは手放さず人生の糧として大切に所有しつづけた。彼の生きる指針そのものが音楽だった。
つまり、年老いた靴磨き少年がディースカウを聴きにきて僕らの前に座っていたということ。
その雑誌を立ち読みした時、「本当に音楽が好きな人だったんだ。」と救われたような気持ちになった。
僕は女性に手をあげたことは一度もない。ただ、もしも彼に聞こえるような声だったとしたら、(聞こえていないと信じているが)殴ってしまったかもしれない。自信が無いのですが、もし殴っていたらとしたら2人とも大きな心の傷になっていただろうな。暴力が物事を解決に導かないと知っているけれど、あの時はあまりに若かった。
話が飛躍したけれど「菩提樹」が聴こえてきたのは、吉田先生の四部作「永遠の故郷」<夕映>最後のシーンがトマス・マン「魔の山」の主人公と同曲の関係性を巧みな文体で表白している部分と関係があるかもしれない。
でも、そんなに高尚な話でもなくて、今日はハイネが表現したような五月晴れで、その青は限りなく透明で、どこまでも深く、そして目の前にあるように見えるのに悲しいほど遠くにあったから、色彩も最小限度に精神も無駄を削ぎ落として何も考えないように努力したときに、欠片となって残ったものがシューベルトだった。
即ち実情として欠片というのは適切な言葉ではなく、計算されつくされた構成だが、そこに音楽と同時に生まれ出たようなドイツ詩との調和が聴き手に安らぎを与える。
ただ木々のざわめきが、ここにあなたの居場所があると伝える。
仕事はどうにか終了した。
家に帰りたくなかった。
封印していたけれどパチンコ屋さんに入る。
こういう時はなぜか出る。
まだ続きがある状況でしたが、1万円もあれば今日の僕には充分で、「良かったら打っていいですよ。」と隣のご婦人に声をかけたら、「あら、嬉しい!」
大音響のブルース・スプリングスティーン。
22時過ぎ、まだ帰りたくない。
鎌倉駅から暗黒の妙本寺。
何も考えずに花の散った海棠を見つめる。
坂道を下りる。
昼間は人だらけだったのに誰もいない。
文学館で見た若き日の小林秀雄の写真みたいに段葛を闊歩してみる。
中原中也が死んだ病院の前を信号無視して横断。
路地に入り大佛次郎の家の横を歩いていたら、どこからかピアノを練習する音がする。
何の曲だか聴き取れない。
空を見上げた。
星は見えなかった。
ゆっくり歩く。
そして、吉田先生宅の前まで着た。
やっぱり駄目だった。
悲しくて、悲しくて
泣いた。
去年の師走。
先生のご自宅からお庭の草木を専門業者の人たちが刈ってトラックの荷台に積んでいた。
綺麗にして新年をお迎えになるのかなと思った。
運びこまれた枝の中に一輪の赤い花が輝いていた。
僕はそれ持って帰ってきて、「之を楽しむ者に如かず」を適当に開いて挟んだ。
ちょうど<音楽は、自由な野の鳥>の部分だった。
合掌。
しばらくブログ書けそうにありません。
コメントはチェックしたいです。