6月6日 P・ヤルヴィ&フランクフルト放送演奏会

 パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団演奏会。6月6日19時開演サントリーホール
 実は昨夜記事を書きかけたのですが、電池切れでマウスが動かなくなってしまい、気分が削がれ全て消去した。
 プログラム
 リスト「ピアノ協奏曲変ホ長調」 ピアノ独奏 アリス=沙良・オットー
 普段自宅ではあまり聴かない種類の音楽ですが、旋律は全部頭に入っている。
 本当は7日のメンデルスゾーンブルックナーを聴きたかったのですが、ネットオークションで定価即決でC席が売りに出されていたので躊躇せずに落札、RAブロック4列目だった。
 思えば、吉田先生の訃報で仕事以外の時間は灰のような生活をしていた。
 自分でもどうやって時間を潰していたのか思い出せない。
 酷い時はお酒と睡眠薬で昼なのか夜なのか解らない場合もあったのですから最悪だった。
 どこかで頭の切り替えをしなければ駄目だと気がついていたが、スイッチを入れるタイミングが偶々昨日の演奏会だった。とにかく部屋から出てホールに行けたことが大きい。
 僕は何時も適当な気分で書くので、既に消去した内容と全く異なる文章になっていて、もう思い出すことができないから、昨夜のあれは完全に「失われた言葉」になった。
 死とはあらゆる部分の記憶が曖昧になり自己同一性をも喪失することなら、この感覚がもう少し大きな状況に包まれるものかもしれない。いずれにしても死んだことが無いので解らない。
 
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 演奏会の前の時間は、久しぶりの銀座「ランブル」でスマトラ珈琲。藤田嗣治のデッサンの前の席が好きだ。特別な時はここにくる。テーブルがレコードに見えてくる。
 
 最初は話題のピアニスト、アリス=沙良・オットーのリスト。
 実演でアリスを聴くのは初めて。つまり見るのも初めて。
 RA席は協奏曲には良くない場所。僕の視界からだと、ちょうどパーヴォと重なってアリスが見えづらい。
 しかも響板があっちを向いているから、視覚以上に聴覚的に問題があって、分厚いオーケストラの奥からあっちに向かれたアリスの音楽が少し遅れてモゴモゴした感じでやってくる。
 今思えばオークションで1階1列目も売りに出されていて、あそこでマーラー聴いたらさぞかし草臥れるだろうと判断し最初からパスしたのですが、あそこなら生アリス目の前だったのだな。
 しかしながらこっちの世界もそれなりの楽しみがありまして、一番の面白みは臨場感とでも表現しましょうか。
 事実アリスは何度もマエストロの棒を確認しながら一生懸命合わせるように演奏している様子が確認できたが、時折ヤルヴィと何か意見の対立でもあるのか、幾つかしっくりこない場面も訪れた。
 音質は打弦が強くメリハリのあるパワフルな印象。太い音ではない。如何にも女性の骨を関節を感じる。演奏スタイルはテレビで見たときよりも激しく身体を動かしながら、苦しそうな表情がパーヴォ越しにチラチラ見える。そいつは人によってはエロティクに思ったりするのでしょうが、僕には成熟した女性の潤いにまでは感じられなくて、5分程度経過した段階で「主食はパンかな?ご飯かな?いや、きっと五穀米だろうな。」なんてどうでもいいことを考えていた。
 だいたい、リストの1番は世間はどうだか知らないけれど、個人的には名曲だとはとても思えないと申しますか、正直変な音楽だと感じている。今後も意識しながら「第1協奏曲を聴きに行こう!」にはならないだろうし、CDでも真剣に聴く日は来ないような気がするし、よく解らない。(10年以上聴いていないリヒテルのCDが部屋のどこかにある。)
 無責任な発言で半分以上投げやりですが、たぶん良い演奏だったと思います。
 演奏後ソデに引っ込んだパーヴォとアリスは、(ここもRAブロックの面白いところですが)正面からのお客さんから見えないドアの向こうで「何か言いあい」をしている。ドアを閉めないホールマネージャーも馬鹿だと思うのですが、明らかに「アリス・・今夜の君は素晴らしかったよ。」ではなく、「お前はどうして○○なんだ!」的な笑顔の無いパーヴォの表情で、あれはなんだったんだろう?
 その後アリスはアンコールとして、リスト「ラ・カンパネッラ」とブラームス「ワルツ3番」
 リストはキラキラと輝くように粒だった音色、確かな技術。顔は見えたが指が見たい。しかしリストは全てを語るように作曲したのだな。
 素晴らしい演奏だったから、それで止めれば良いのに何でブラームス弾いたのかな。
 「お嬢さん、挫折や失恋の経験はありますか?」とでも質問したくなった。
 僕は、失恋や挫折等原因は何でもいい精神の喪失を知る人間、或いは詩人にしかブラームスは理解できないと思っている。
 パーヴォは技術の問題ではなく、もしかしたらそういうこと指摘していたのかな。
 ふとそう考えた。
 アリスは裸足だった。そのほうが演奏しやすいのでしょうし好きにしたらいいのですが、若さと表層的なブラームスにドメスティックな生活臭を見せつけられた気分で良い印象は無い、それに高貴ともいえない。
 暫くは観念を追求してもらいたいと感じるのですが、たとえダイヤの原石を磨いたところで必ずしも美しく輝くようになるのだろうか、まだ僕にはアリスの将来が見えてこない。
 
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 マーラー5番は素晴らしい演奏でした。
 CDはブルックナーであるが、小生は元々ミーハーでチャンスがあればサインくらい貰いたくなるのです。
 しかしアリスからは貰わなかった。
 指揮者の優れた面、勿論マーラーの音楽も優れているのですが、今回一番驚いたのはオーケストラの水準の高さである。比較するだけ可笑しな話かもしれませんが、4月に東フィル5月に読響を聴いたばかりで無意識のうちに比べてしまうは良くないけれど、フランクフルト放送って凄い!
 みんな素晴らしいのですが、やっぱり管のセクション、特にホルンの主席奏者!あれ誰?
 普段からホルンは音を外して当たり前に慣れてしまっているから、こんなに凄い人を知ってしまうと、他の何を聴いても満足できないかもしれない。
 マーラーは5楽章からなるこの曲を3つの世界観から構成させていると言ったそうですが、僕には数あるマーラーの作品の中で最も分裂した音楽の集合体と思っていて、個々には優れた楽章だったとしても、自宅のCDとかで全曲通して聴いたことは一度もない。(必ず途中で休みを入れるという意味)
 だから演奏会は大きなチャンスで、半ば強制的に座らされているような立場ですから、普段は見えない世界が感じられたり興味深い。例えば「ここでもハンス・ロットも出現」と気がついたり不思議な緊張感。
 オケの配置は最近流行のバイオリンが向かい合う形ではなく右手にチェロくるパターンですが、何が正しいのか最初から真横の席ですから、まあどうでもいい。
 途中ハプニングがありまして、それは第2楽章が終わったところで、凄いホルン奏者が第3楽章で右手に移動して(僕の席の下)スタンディングで演奏したのですが、その準備の時にさっきアリスとパーヴォが言いあいしていたドアを開けて、怒った表情で中にいる誰かに言葉を発した。そしたら痩せ型の日本人らしきオジサンが出てきて下手にあったカメラの操作を行なった。NHKかな?
 これは気のせいかもしれないのですが、僕は1楽章の後半から微かな「ジィー・・・・」というノイズが流れていたように思っていた。そのノイズがカメラ操作と共に消えた気がする。最初は自分の耳が変になったのかと思ったけれど関係あるかもしれない。
 ホルンのスタンバイまで少々時間が必要、お客もオケもパーヴォも待ち続けた。仕方が無い。
 しかし、2楽章と3楽章の間でそれなりの時間を費やされても音楽的な破綻が生じないのは不思議と思いつつ、このあたりがマーラーだなと再認識。楽章間では2と3の間、3と4の間なら問題が無いとしたら作曲家の3部構成の5番発言は正しいということなのだろう。
 ホルン奏者の思いもよらない行動はもう一箇所ありまして、それはアダージェット~5楽章の出だしホルンのところ。これはマエストロとの事前打ち合わせがあったとしか考えられないのですが、指揮者が静かに棒を止めて、でもまだ余韻を感じながらの微妙なシーンで、指揮者の支持無し、いきなりホルン奏者単独の音だしで5楽章突入!勿論ファゴットも続く。これは吃驚しました。マエストロは笑みを浮かべ、でも気のせいか数秒間はオケが指揮をしてパーヴォが音楽に合わせて手を動かしているように見えた。「これはコメディーだ!」と感じた。
 運命のように苦悩から歓喜が5番なのなら、誰もが想像もしない笑いが表現されても、僕は肯定の立場を取りたい。
 アルマが嫌った最後のコラールは速度を上げて突き進んだ。
 2楽章ではたっぷり歌わせながら表現していたから、サヴリミナル効果のようにジワジワ効果が齎され、恐らく直接的に脳に刺激を与えている箇所も前後左右に点在しているでしょうから、例え世俗的なコラールだったにしても、大袈裟でも構わない、これがマーラー流の歓喜であり、今の時代に相応しい新しい演奏スタイルだと気がつかされた。インバルの時代が随分古くなってしまったように感じられた。
 過去との対比をするならば、一番の違いは・・特に静寂に回帰する楽章の場合顕著に感じられた神秘主義的な曖昧さが、説明可能な論理性と合理性が強く働いている部分だと感じられる。
 アンコールが2曲ありまして、マーラーの後に何を演奏するかと思ったら、ブラームスハンガリー舞曲」の5番と6番だった。しかも極端にルバートさせ、時に加速し、休止符では何秒も止まり、とにかくヤルヴィは遊ぶ。
 思えば一昨年のドイツカンマー(ブレーメン)のシューマンプロのアンコールと同じ。
 編成の規模の違いから音の厚みは異なりますが、聴き手の意識は当然ドイツロマン主義に導かれる。
 あの時はシューマンそしてクララとの関係を想起させ、ブラームスが近未来に到達する世界を公開することで、偏執狂シューマンにスポットを当てた。
 つまり今回は逆だ。
 遊び心のブラームスは雄弁に語る。
 「あの美しい旋律は、君たちが作ったものではないね・・」とでも生徒に言っているかもしれない。
 意義深く、面白い演奏会でした。
 音楽って、1回限りの再現芸術なのだなと痛感しました。
 同じ楽譜で同じ演奏家、たとえ同じ環境でも同じにはならない。
 パーヴォ・ヤルヴィ素晴らしいです。
 
 ☆この演奏会の幾つかの書き込みを読んだのですが、ヤルヴィの5番を或いはホルン奏者に対し批判的な文章もあった。感想は人それぞれでしょうが、この日のマーラーに関しては間違いなく名演だったと自分の考えを貫き通したい。