今年の5月

 久しぶりですが、ブログと対峙できないくらい忙しい用事が幾つかあったのです。
 何か感じた時に文章にしなければどんどん忘れる。
 最近脳の記憶を司る機能が鈍い感じがしてる。
 
 ハンス・ロット交響曲第1番のCDを買った。(パーヴォ・ヤルヴィ指揮フランクフルト放送交響楽団
 この録音は2~3ヶ月前に「音楽愛好家は全員聴け」みたいな文章を書いた記憶があって、それはそれは楽しみにしていたのですが、販売延期だとか私にはあんまり関係ない大人の事情で5月半ばに入りようやく購入する事ができたのです。近々上記のコンビによる演奏会がサントリーホールで行われるのですから、少しでもと相乗効果を狙ったのだと思いますが、どうせならマーラー5番やブルックナー8番なんか演奏しないでロットを取り上げれば聴きに行くのにと思った。勝手な想像ですが、コンサート直前に「演奏家の芸術的な理由により、マーラー5番からハンス・ロットの1番にプログラムを変更させていただきます。」とかなれば面白い。
 新譜CD購入だから久しぶりにタワーレコードに行ったのですが、何時の間にかポイントカードの仕組みが変わっていて、レジでアイラインの濃い女性店員がカードの仕組みについて説明してくれたのですが、マニュアル的な言葉の連鎖に嫌気がさして途中から聞いていなかったのでどのように新しくなったのか解らない。前回買った新譜は「小澤カーネギーライブのブラームス1番」だったから、この店に来るのは多くても1年に1回程度で、恐らくこれからも同じような感じだろうからあんまり関係ない。最近は中古品ばかり求めているから、1枚2,500円てもの凄く高額に感じられたが、大物指揮者による初のハンス・ロットなのだから買って正解なのでしょう。
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 CDの前に置かれているのはシューベルトの胸像と青い猫である。意味は無い。
 感想ですが、素直にロマン派(特に後期)を知っている人には聴いてもらいたいです。これは名曲だと思っているし良い演奏である。ロットはヴァイグレのCDで覚えたのですが、曲想を頭の中で歌いながら歩いていたら途中からマーラーになってしまう奇妙なストレスがあったけれど、ヤルヴィは最初からロットとマーラーを切り離して提示してくれるから破綻が訪れない。今ではロットを思い浮かべながら電車にも乗れる。だからといって完全に別物かというと、そうともいえないのは明らかにマーラーがパクッテいることもよく解る。細かな解説は面倒なので聴いた人が個々に判断してもらいたいのだけれど、頭脳明晰で職人的気質を獲得した現代の巨匠が音の泉に溺れずに、正確な情報としてロットを投げかけてくれる。変な表現ですが、ヴァイグレの功績はロットを演奏したことだけでそれ以上でも以下でもない。聴けばヤルヴィが凄いと誰もが共感するのではないかなと思えるし、オケがフランクフルト放送というのも奇妙な因果だと気がつかされる。かつて、インバルがこれこそが音楽だと表現しまくったマーラーはこの団体だったし、好き嫌いは別にして音楽愛好家は底なし沼みたいな粘着質のマーラーを求めインバルを評価しムーブメントになった。私は以前から芸術はどこかで誰かが社会的代償を払わなければ成り立たないと思っていて、誰もがあの時のインバルやシノーポリ他諸々に何か新しい世界の幕開けを期待したけれど、悪くは無いが現実的には良い演奏だった程度と個人的には感じていた。
 世間が最近になってようやくヤルヴィを評価し始めたけれど、この人は社会的な代償を払っているかどうかは別にして、そうしようとは気がついている立場の人だと思っている。だからドイツカンマーのライヴでシューマンを聴いたときの衝撃ったらなかったし、そういう演奏家はあまりいないのです。とにかくフランクフルト放送に絡み付いていたマーラーの呪縛をヤルヴィが取り除いたように聴こえるロットである。
 似たような感覚をアーノンクールの「天地創造」公演を聴いた時も感じていて、(ブログで一昨年の秋11月に感想を書いた。書庫は「演奏会の話」)出だしの混沌を突き破るの「C音」を聴いた瞬間、音楽の歴史を塗り替えたのはモーツァルトでもベートーヴェンではなく「ハイドン」だったと確信したし、あれこそ社会的な代償だろうと感動した。しかも同じような改革者のアーノンクールで体感できたことは大きな収穫だったのです。ああいうのが本当の音楽だと思うのです。ヤルヴィがやろうとしていることは、多少取り扱う音楽は異なれどアーノンクールに似ている気がしてならない。ティーレマンヤンソンスが素晴らしい指揮者で人気があるのも理解できるけれど、改革者ではないと私には感じられる。
 
 5月15日に下野竜也さん&読売日本交響楽団演奏会に行ってきました。
 秋に舞台でご一緒する美女ピアニストさんから招待状を2枚戴きまして別の美女を誘う。しかもサントリー2階センター1列目なんてちょっとしたセレブな体験でした。小泉元首相とか吉田先生が座るような場所である。
 誘った女性がNGだったらオフ会男軍団の誰かに声をかけたでしょうが、やはり喜びを分かち合うのはできれば女性がいいですし、CDを分かち合う感覚とはなんか違う。
 ライマン「管弦楽のための7つの断章」‐ロベルト・シューマンを追悼して‐日本初演
 シューマン「ヴァイオリン協奏曲」ニ短調(vn三浦文彰) 同「交響曲第2番ハ短調」というプログラム
 ライマンはシューマンの遺作「最後の楽想による変奏曲」へのオマージュで、シューマン自殺未遂<ラインに飛び込む>直前に作曲された旋律が幾つかのシーンで聴こえてくる。例えば管楽器が美しい旋律を奏でる時に弦楽器によりライマンの不協和的な反復がクレッシェンドしてきてシューマンが掻き消されたりするから、生と死の境界線をいったりきたりしているようで恐ろしい。それでも美しいな。こういう音楽好きだと思った。その最後の楽想は次のヴァイオリン協奏曲緩所楽章冒頭の主題とリンクしていて、なんとも感動的だった。ヴァイオリンの三浦文彰さんはまだ19歳でパンフレットには「彗星のごとく世界を席巻する若きサラヴレット」とか誰が考えたのかヌケヌケとダサいコピーである。演奏は眠くなるくらい普通の演奏。サラヴレッドはアンコールとして得意げにパガニーニなんかやるから悲しいかなシューマンがどこかにいってしまった。優等生の音楽はあんまり好きじゃないな。あの時会場の人が拍手したのはアンコールを求めてのそれではなくて、「これからも頑張ってください。」という拍手だったのに、シューマン最後の楽想に対しパガニーニとはいくらなんでも残酷すぎる。
 交響曲バーンスタインみたいに弦の編成が大きくて厚みのある音楽なのは仕方が無いのかな。ヤルヴィの投げかけた世界を聴いているだけに、木管の奏でる旋律が聴こえづらいのはなんともストレスでしたが、でも下野さん素晴らしい演奏だったと思います。2階センター1列目でオケ、最高の席でした。感謝。
 
 もの忘れが激しいと感じながら書けば次々と書きたい事がある
 近所にその昔高級料亭だったという「三貴園」跡地がある。
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 写真は廃墟に続く道の下なのですが、(流行っていた頃はロナルド・レーガンが来たとか?)現在はお化け屋敷みたいになってしまっていて、それでも巨大な庭園を含む敷地は自然豊かで近隣の我々はその恩恵を受けている。ところが回覧板に「マンション建築の住民説明会の案内」があった。
 調べたら、山まで削り作る大掛かりな工事みたいだから、なんだか困った事になった。
 住民説明会は仕事が入ってしまった日曜日だったので行けなかった。
 その後の詳しい事は知らないのですが、もう決まってしまったことなのだろうな。静かな場所を探して引っ越しを繰り返してきたのだけれど、大丈夫だと思っていた観光地から離れたこの地域も駄目になるかもしれない。
 生きていける場所が無くなってしまう。
 金になるのなら歴史ある鎌倉の山でも削るのだな。
 深刻な問題なので市に問い合わせてみます。
 
 そういえば金環日蝕の時間に自転車で海岸まで行こうと思っていたら、厚い雲の中から雨が落ちてきた。
 これでは絶対に無理だから外出せずにテレビで見始めたけれど、どうしても肉眼で見たいから、もう一度外に出て空を見上げた。数分後僅かな時間でしたが少しだけ見ることができた。
 宇宙的な規模で自分を見つめ直す稀有な時間で、いま太陽と月が重なり合っていると確認しないではいられない。この地で次に金環日蝕が観測できるのは300年後の4月8日。もう誰もいない。
 
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 この写真は自宅の裏山、県の保護指定を受けているのだけれど、ここまで開発の手が入るとしたらテロリストになってやる。
 明け方鳥の鳴声で目が覚める。どんなに大きな声でも煩くは感じない。
 山を削る音は樹木と大地の悲鳴なのだと思う。あれ以上のノイズは存在しない。
 ハイネの5月もあっというまに後半。
 「我に五月を」と願う。