銀座とテレビで聴いた小澤&水戸室内管

 日曜日ぶらりと銀座に出かけた。
 新橋、有楽町近辺等の銀座の外れには時々出没するものの、四丁目とか銀座らしい場所は久しぶり。
 僕にとっての銀座は「天龍」で餃子を食べ、ランブルで珈琲を飲むくらいで他にする事も無い。
 気が向いたら天井桟敷一演目の歌舞伎鑑賞もするけれど劇場は工事中。兎屋のうどん、煉瓦亭の場合もあるが、誰か資生堂パーラーでご馳走してくれないかなと他力本願。
 今回も「天龍」から「ランブル」と同じ経路だったのですが、餃子を食べながら満席のテーブル彼方此方を見ると皆が餃子を食べていて、一日に幾つ餃子を焼いているのか考え出したら気が遠くなってきた。
 かつてどこかのホテルでテーブルマナーの司会をしていた時、料理長がお客様を前に「皆様の胃袋を満足させる為に二頭の和牛が犠牲になっています。」とか話していたことを思い出した。
 それに近いというか、確実にそれ以上の豚が犠牲になっているのだから、「死んだぶん美味しかった。」と寺山修二的なコピーを思い浮かんだ。
 「本日十頭の豚が犠牲。死んだぶん美味しいです。」なんて看板に書かれていたら行列してまで食べようとする族まではいないだろう。
 子供の頃に「天才バカボン」を読んでいたら、パパが屋台でラーメン作っていて、「このラーメン不味いね。」と言うお客に対して、「ダシの煮干を食べた奴をダシにしました。」と答え、屋台の横にふにゃふにゃになった猫がいた。
 食後そんなことを思い出しながら歩行者天国を歩いていたら、人だかりがあって「大道芸かな?」と近づいたら、そこには偶然にも三匹の猫がいた。
 飼主なのかオヤジが自慢げな表情で腕組みをしていて、大量の通行人が「かわいい!」とか騒ぎながら写真撮影をしている。
 その中の一番小さな子猫と視線が合ったのだけれど、「怖いよう。暑いよう。喉が渇いたよう。」と訴えかけてきたように感じられ、なにもできなかったけれど助け出したい欲求が生まれた。
 昔から僕の周辺には何故か小動物が集まってくる傾向があって、先日も自宅近くで誰かにつけられている気配を感じ振り返ると、犬と猫と台湾栗鼠が直ぐ後にいた。
 不思議とそういうことが多い。
 
 「カフェ・ド・ランブル」ではカウンター席でトラジャの濃いのをダブルで注文し、「ああ美味しい・・」
 おそらく日本で最も美味しいドリップ珈琲が飲めるお店だと勝手に思っているが、お湯の注ぎ方から作業の全てを凝視しながら、自宅でも同じように淹れたいから、今日こそどうにかして技術を盗んでやろうと必死になった。
 タンザニア豆を二百g購入して店を出た。
 実は今回旨味の抽出方法を完璧ではないまでも壁を乗り越えた感覚があって、どうやら有意義な時間だったみたい。
 
 その後山野楽器に向かう。途中でまた猫を囲む人の輪を通過。
 入口でボーズスピーカーからジャズらしき音楽がキンキンと大音響。
 一瞬躊躇したが我慢して入店。
 ボーズの音を聴くと、スタバの臭いがすると、心臓が痛くなる。
 AKB大島の等身大パネルがあって、破壊したくなる欲求を良心が抑える。
 ついに山野楽器も魂を売ったなと思いながら二階のクラシックコーナーに行く。
 今度は円筒形のスピーカーからナヨナヨした音が鳴っていて、破壊したくなる(笑)
 なにも買わずに店を出る。
 
 夜、小澤&水戸室内の演奏会を放送していたから、買ってきたタンザニア珈琲を飲みながら鑑賞した。
 ハフナー交響曲は随分重い感じの表現。でもこれが普通なのかな?たぶん普段からピリオドばかり聴いていて無意識のうちにそっちに慣れているのかもしれない。それと、実演で聴かないと判断できないのですが、音の大きさに対しホールが小さいのかもしれないと想像した。
 ハイドンのチェロ協奏曲、これは凄いと思った。
 病状の心配な小澤さんですが、身体は思うように動かないのかもしれないけれど聴覚を司る脳の働きは俊敏に機能していると解る。
 これが普通の老衰なら双方ほぼ均等な流れになっていくのでしょうが、動かない部分(動かしたい部分)は、全てを指揮してしまう癖が身についているマエストロ特有の身体と連動していて、どうやら無理と解りながら己と戦う世界を自らの手で作り出してしまう。その無理な姿勢が晩年の朝比奈やヴァント等と違う部分だと見えてくる。
 例えばボールを壁に投げつければ普通に跳ね返ってくるけれど、体力が伴わなくても強く投げたい欲求があるようで、事実強く投げてしまうから反応も大きく、それをどうやって打ち返すかが問題となる。
 具合の良い時のマリナーズイチローなら機敏に対応してしまうような難しい課題も、傍観する立場では理解できない論理的な裏付が存在する。
 でも、マエストロの場合は仕事が団体作業だから、理詰めで考察する以前に、ある程度は他者に課題を依存することが可能であり、そこでは勿論相互の信頼関係が必要になるけれど、以前は無理してまでもオーケストラをドライヴしてしまう音楽作りに演奏家との間にある距離感を感じさせ、形容が難しいけれど孤独が見え隠れしていたように思っていた。
 ボストン時代、ウィーンに客演したベートーヴェンをFMで聴いたことがあるけれど、典型的な失敗作だった。
 何でもいい、全ての原因は病気が発端でしょうが、信頼関係の延長線上に距離感が無くなりつつあって、優れた演奏家が最高の形で反応を示してくれるから、「ああ、こういう音楽をしたかったのだな。」と思った。
 存在しているようで希薄だったかもしれない協調性。
 そして、聴きに行けばよかったと後悔した。
 それでも体力の問題は大きいかもしれないのは、楽章間に椅子に腰掛けミネラルウォーターを手にするマエストロがやたら小さく感じられた。
 でも音楽と対峙する時には生命に輝きが訪れ、聴き手に喜びを提供する。
 俺はハイドンに感動した。
 復帰を祈りたい気持ちです。