ロンドン五輪開会式から見えたもの。

 ロンドン五輪の開会式が興味深かった。
 朝早かったので観るべきか悩んだのですが、日曜日に五輪をテーマにしたイベントでお話をしなければならなくなり、参考程度のつもりでテレビを点けた。
 細かな部分まで観察できていないのですが、英国の牧歌的な風景から始まり、徐々に現代に近づいていく設定なのは労働者が手作業で鉄を造りだし、それは5つの大きな形状の輪として精製され、最終的には五輪マークとして完成する。つまり第1次産業から産業革命に至る工程が現代の礎だったと観るものに感じさせる仕組み。
 選手団の入場、各国代表の旗手の横にスタッフが(銅製の花びらと紹介されていたが)器のような形状の物体を持ち行進のアシストをする。その花びらが出場国分集められ長い枝に装着される。7名の最終ランナーたちが花びらに火を放ち、次々と全ての花びらに炎が広がり、それぞれの枝が天に向かい移動をはじめ、個々の小さな光は集められ大きな聖なる炎として完成した。
 <途中ブリティッシュな音楽やMrビーンベッカム等、色々な企画もあって誰もが楽しめる内容。>
 
 ところで演出家の名前も知らないで今文章を脱力しながら書いている。
 今回はとても素晴らしい演出だと関心したのです。
 北京では高名な中国の映画監督が作り上げた舞台だったのだけれど、派手な演出だった以外はあまり記憶していない。CGが使われていたり少女の口パクだったりが話題になりましたが、そういうことは自由ですしどうでもいい。
 つまり問題は<テーマ>である。
 北京では無力な僕には見えなかったそれがロンドンでは感じられた。
 
 劇作家であり社会批評家だったバーナード・ショーが無類の音楽好きだったという朝日新聞の記事を、中学生位の時に読んだ記憶があって、それを思い出したのです。「完璧なワーグナー主義者」等の批評も存在すると聞いたこともある。
 評論家としてワーグナーの思想に重要な役割を果たしているのだけれど、ニーチェのような狂ったみたいな情念とは異なり、極端な感情移入は無い。
 「ニーベルングの指環」を進化論的なドラマと規定し、ジークフリートのような超人の到来を予言、しかも論理的で冷静に考察しようと努力、指環物語の中から世俗的な権力闘争や金銭的な腐敗ドラマを読み取る。
 現実的な感覚に支えられた考えは、反神話的であり反ロマン主義的な解釈なのですが、それはそのまま1973年のバイロイト音楽祭でのパトリス・シェロー演出に繋がっていると僕は考えている。
 シェローは、英雄であり超人のジークフリートを舞台上で労働者にした。鍛冶屋のミーメが手作業で鍛えた剣をいとも簡単に破壊、労働者は巨大な機械を使用し名剣ノートゥンクとして蘇生させる。しかしジークフリートは死ぬ。つまり産業革命は肉体と精神を破壊すると、シェローは舞台上で定義づけた。
 彼は西欧の演出は様式を持たないと考えるが、音楽には完璧なフォルムを持つと感じ、ブーレーズから構造を学び取り、結果演劇と映画作りに邁進する独自の道を切り開いた。
 簡単に説明するなら上記のような背景があるのですが、悲劇的な実情としてその後の演出家があの「指環」を越えたとはどうしても思えない。真似をしたような舞台は沢山あるけれど夢中にはなれない。方向性は異なりますが、個人的にはマルターラーに未来を託したい気持ちはあります。現在のバイロイト演出は観ていてコメディみたいだから面白いとは思いますが、哲学的とはいえないと考えている。
 問題はやはりテーマなのだと思う。
 
 ロンドン五輪演出が、産業革命以降の現在に続く社会のあり方を肯定しているように見えるのですが、果たして本当にそうなのか、金融危機や格差問題或いは原発等から否定の立場を見出し、表に出てこない裏のテーマとして痛烈な社会批判がありはしないかと気になるのは僕だけではないはずです。
 破綻国家の象徴であるギリシアの入場はお決まりの一番最初、そしてそれぞれの国旗を見てもらいたいのは、これまでどれだけの国々が英国の傘下にあったのか、それは吐気を覚えるほどの数である。
 内戦中の国が入場、そしてイラク、イラン、イスラエル北朝鮮
 大国アメリカや中国から何を見出すのか。
 五輪旗は人権活動家6人の手で会場入りした。「パレスチナに和平の実現を。」とニューイヤーに語ったバレンボイムがその一人だった。指揮者としてのバレンボイムといえば、やはりシェローと製作したベルリンでの「ヴォツェック」、ミラノでの「トリスタンとイゾルデ」、そして映画「インティマシー」は英国で撮影されたが、常に底辺で生活をする人々を底辺の目線で表現しつづけた。どこかの国みたいな上から目線ではない。事件と事故で被害を受ける人々はいつでも底辺の生活者である。
 
 アメリカで生まれ英国人として英国で亡くなった孤高の詩人、T・Sエリオット。
 救われるべきか、堕ちるべきか、常に運命は人の魂に執着する。
 「四つの四重奏」では、堕ちた人間存在の確認を通して救済の可能性を追求した。
 以下はその一部
 
 ・・・孤絶した強烈な瞬間ではなく、前も後も持たないのではなく、瞬間ごとに燃える一生である。しかも一人の人の一生ではなく、解けない秘儀を隠し持つ古い石の一生である。・・・・
 ・・・焔(ほのお)の舌は全て集められ、王冠状の火の束となる。かくして火と薔薇は一つになる。
 
 
 焔は地獄の劫火、薔薇は天国の象徴。
 簡単に説明するなら、地獄と天国が一緒になるということ。
 五輪の聖火が完成した瞬間、「これはエリオットだ。」と強烈に感じ取った。
 特に真下から聖火を見る画像があったのですが美しい眺めに思われた。
 天国のようでもあり、全てを焼き尽くす終末の光景のようにも見える。
 炎上するワルハラ。
 
 
 この記事は、とにかく急いで書きたい内容でした。
 誰かがどこかで書く前に文章にしなければいけないと思ったのです。
 
 演出は映画監督のダニー・ボイルでした。
 無意識のうちに2~3作観ているようですが、印象に残っている作品は無い。