速度の問題

 日曜日にちょいと気合いを入れて取りくみたいイベントがあって、資料を見つめていたらいつしか仕事モードに入ってしまい気がつけば朝になっていた。曖昧な記憶の中で、疾走する車窓から次々と美しい景色が現れ、長くは続かなかったけれど爽やかな情景が現れては消えた。目覚めたとき、窓から見える木々の緑が色濃く感じられた。
 何故そのような夢を見たのか理由ははっきりしていて、昨日ブロ友Lさんの記事「オーボエ・ダモーレ協奏曲BWV1055(バッハ)」を読んだことが原因だと思う。そこでは名盤の誉れ高き古のヴィンシャーマン&ドイツ・バッハ・ゾリスデンと、アルブレヒト・マイヤーの最近の動画が比較されていて、両方とも素晴らしいのですが、マイヤーの演奏が衝撃的で画面に釘付けになってしまった。兎に角かっこいい、そして音色が美しい。その場で10回くらい続けて観てしまった。
 アルブレヒト・マイヤーベルリンフィルの主席オーボエ奏者。僕はサントリーホールとインターコンチネンタルの中間地点で彼と擦れ違ったことがある。長身で歩幅が広く急ぎ足だった。ステージとは異なるラフなブラックのジャケット、インナーはシルクの白、磨かれた革靴だけはステージ用なのか埃一つついていないように見え、なによりも楽器のケースを大事に抱えてる姿が印象的だった。
 オーボエ・ダモーレ協奏曲を聴けば誰でも気がつくのは速度と楽器編成の問題なのですが、今回は編成についての側面は考えない。速度について言及したい。それは演奏の速度だけではなく、日常の歩く速度とも因果関係がありそうな気がしてならないし、常に目的に向けて急いでいるのかもしれないし、或いは彼が神経質なだけなのかもしれない。 
 編集が素晴らしく、次々と数台のカメラが狙いを定めていて、真横からリードを銜える楽曲以外の表情をも的確に捉えている。動画は加速する社会そのものに順応しているように見える。感動的なほど構成がみごとなのは映像担当者のセンスなのでしょう。
 ヴィンシャーマンが録音したものは50年前、典雅なバッハが構築されていることから中には「これが理想の音楽追求」とお考えの人もいるでしょうが、現代における表現の進化から見れば、演奏スタイルの古さが気の毒でならない。これも時代の流れであると僕には感じられた。
 
 以前似たような気持ちをが映画で知った。
 とある作品のオープニングで使用されたシーンはウィーンに向かう列車の中で撮影されたものである。
 Opening of Before Sunrise ここをクリックしていただければ意味をご理解いただけるだろう。
 パーセルが作曲した、カルタゴの女王ディドとトロイの王子エネアスの登場するオペラの序曲が使用されている。
 人生は短いが美しき出会いは、加速する進化の中で育まれるもの。スピードを上げる車体は明確に線路の形状を捕らえることができない。ドナウが映し出され、オーストリアの野山が胸の高まりと一人旅の孤独を映し出す。主人公は運命的な出会いをし、愛し合い、夢を語り、人生について悩みを打ち明け、そして涙を流しながら翌朝駅で抱擁する。これは悲しき宿命である。それでもピュアな彼らには未来が微笑みかける。
 過去に執着するのも人の自由であり、否定はするつもりは僕にはない。何故ならそれも人それぞれの生き方であるから。つまりバロックの速度に疑いを持つことも自由。しかし、彼らは人を否定し、己を正当化し、素直な思考が磨耗し、旅立つことを拒み、夢見る心を持たない。唯一の想像だが安定を求めているようには感じられる。その先に道はないと、極論であるが今日の僕はそう思わずにいられない、悲しく嫌な思いをした。
 パーセルの音楽は加速する。
 「ディドとエネアス」において、彼らが愛し合っていたことを私は知っている。
 人生には限りがある。
 以上のように記したが年齢とは関係がなく気のもちかた次第なのだと信じたい。
 誰もがそれに気がつくべきなのです。
 愛する者よ列車に乗れ。