遺産相続の電話と墓参とシューベルト

 自宅電話の調子が悪くなってしまい家電量販店でSHARP製の新しい機種を購入してきた。
 無いと困るものだから仕方がないけれど、ここ数年コミュニケーションのツールとして電話って使用することがあまんりなくて、主に仕事関係のFaxか、深夜音楽好きの友人と話をする程度。この前も年中情報交換しているナレーターの先輩から「電話番号教えて。」なんてメールがあって、そういえば伝えていなかったかな。アナログなマインドを肯定していたはずなのに、徐々に現代社会を受け入れる生活様式に変化していたみたいで、しかも「これから電話していい?」とか予め連絡を取り合ってから、約束の時間に電話が鳴る。だから便利な世の中になってきたのか、ただ無駄な作業が加わっただけなのか判らないけれど、相手を気づかう心の有様に嫌な気はしない。
 先日珍しいことに間違い電話があった。ある紳士からなのですが、帰宅したら留守電に録音されていて、正確には今回で5回目の録音だから、おそらく僕の番号を手帳か何かに間違えて記しているのかと思う。
 最初は「○○ですが、電話ください。」だったのですが、少しずつ内容の具体性が明らかになってきて、最後は一昨日だからその日は終戦記念日。「○○の弟の○○ですが、何度電話しても繋がりません。実は○○の○○が死にました。遺産相続のことで相談です。電話ください。」と凄いメッセージで驚いてしまった。
 遺産相続といえば、その昔テレビで見た映画「犬神家の一族」を思い出す。
 僕は昔から物事を都合の良い方向で考えてしまう癖があって「これはもしかしたら間違い電話ではないのかもしれない。」忙しげに○○さんの名前を思い出そうと努力した。
 ちょうどのタイミングで両親の墓参りに行ったので、いつもなら安い菊の花程度なのにわざわざ酒屋で小さいけれどニゴリ酒なんて買って「○○さんってご存知でしょうか?」と手を合わせた。「知らない。」と父に返事されたように感じた。
 しかし今朝携帯電話を見ていたら、EZの占いで天秤座が1位だから「やっぱり遺産を受け取らなければいけないのかな。宿命。」とか往生際が悪い。
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 近所の掲示板にルプーのリサイタルのチラシを発見。わざわざ鎌倉にくるみたい。「伝説のピアニスト、再来日の奇跡!」ヌケヌケとダサいコピーである。しかしシューマンシューベルトとリリシズムな男に相応しいプログラムだから聴いてみたい。以前上野でこの人の弾くショパンを聴き「絶対に違う。ルプーよ、シューベルトを弾きなさい。」とか勝手に考えたことがあった。
 10月といえば毎年それなりに仕事が入るので(土曜日だし)暫くしてから判断するしかないけれど、この日は仏滅だから婚礼が入る可能性は少ないし、だいたい鎌倉にルプーを聴く人が1000人以上いるとも思えないので当日でもホールに入れるような気はする。
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 盆に世間は動かない。世界陸上を見ながら夏休みの宿題はスピーカー製作。
 テレビ用にスピーカーが欲しかったので、ハードオフヤフオクで探していたのだけれどいい出会いがなくて、そういえばどこかに使っていないスピーカーユニットがあったかなと押入れを捜索したら、半分壊れているみたいな古いドイツの楕円型のフルレンジが出てきたので、嫌々ながら工作を開始した。
 全てのパーツを百円均一で解決させると決めたのは、こんなことにお金を使いたくないし、世間で売られている綺麗な音だと聴き疲れるし、そしてなにより自分のために力を注ぐことが億劫な性格であることに由来する。つまり本当に適当な作り方。
 そしたら不思議なもんで、クリヤーからは遠く離れたモノラル的なくぐもった感じの好ましい音が出たからラッキー。最初に聴いたのはシェーファーシューベルト歌曲集。次はプライのシューベルト
 
 ゲーテの詩で「An den Mond」D259が好きだ。シェーファーもプライも録音があってどちらも素晴らしい。
 邦題は「月に寄せて」 実は同じタイトルの曲が2つあって同じゲーテの歌詞で番号はD296。シェーファーのCDだと2曲続けて聴くことができる。
 D259は1815年シューベルト18歳の作品と言われているけれど、不思議なのは間髪容れずD296を作曲していること。音楽のスタイルは全く異なり、自然体のリズムでありながら愛しくどこか儚さを想起させるD259、静けさのなか達観した表現のようなD296。歌詞から情景描写を優先して考えるとD296の方がドイツロマン主義的な世界観。そこが魅力的なのか多くの歌手に歌われていて事実有名だと思う。
 僕が興味を持ったのはD259と296の間にシューベルトになにがあったのかという疑問で、仮にこの変化を成長と呼ぶならば、作曲家は精神的に大きな喪失を経験しているような気がしてならない。
 CDは所有していないけれど、youtubeでディースカウを聴くと詩の朗詠のようで限りなく大ゲーテなのですが、プライの場合は美声と相まって言葉は悪いが中庸をいく。
 ところがシェーファーには2人の巨匠にはない独特の魅力があって、シューベルトの心の機微が見えてくるように等身大で表現する。
 例えば初恋の相手を懐かしく思いながら、同時に時間の喪失と不甲斐無い己をの存在を憎み絶望する。
 胸が苦しくなるような悲しみから解き放たれる術があるのなら、シューベルトにとってそれは、孤独を知り、喜びと痛みの迷宮を通り、月夜をさすらうことなのだと語りかけてくる。
 こんなこと普通に考えれば傷に塩を塗るよなものかもしれないけれど、シンプルに物事を忘却する手段を当時の作曲家は獲得できていない。もしかしたら亡くなるまでそのままだったのかもしれない。
 
 随分と話が飛躍しました。
 それから冷蔵庫の調子も変で、仕方がないから新しいのを注文した。
 想定外の出費。