シェロー死去

 悲しすぎます。          
 何かしていないと,ろくな事を考えないので、入手したミルを珈琲屋に持っていってアドバイスを受けたり、飲み会で交換するCDをチョイスしたり、仕事関係の書類を整理したり、それでも2日経過すれば多少なりとも思考できるもので、ヤフーではありませんが「Infernem Land unnah bareuren Schritten...」いつもコメントいただけるgalahadさんのブログで数名の人たちの冷静な意見交換を読んだ。
 そこではオペラの話題が中心なのだけれど、M.F.さんが印象的な舞台としてルーチョ・シルラを上げ、またストラータス演じるルルがえびぞりで死ぬ衝撃、兄妹が結ばれるワルキューレにおける美しさ、どのシーンを取り出してもこれぞシェローと思い出させる美しい情景だったと共感しないではいられない。それとブライアン・ラージの映像の件は同意見で、ああいう編集はウィーンフィルのお正月だけで充分。なぜ綺麗に纏めようとするのだろう。
 今朝方、僕にとってシェローとはなんだったのか改めて考えてみた。正確には考えるというより思い出す作業なのだけれど、例えば珈琲をドリップして旨味成分を抽出したときのように、脳の中に何が残っていたのか。
 そいつは生きるか死ぬかギリギリの状況に追い込まれた時に、人間がとるであろう行動を問い掛けたような気がしてならない。結論から言うと、以前当ブログで少しだけ書きましたがシェローが求め表現しようと努力したのは、どう考えても「構造主義」に導かれるのです。オペラの場合どうしても音楽が主軸になるけれど、そこはクオリティが一定のラインを超えていればあんまり関係ないのかな?寧ろお話の内容の方が大切で、単純な話役者がどのように人間でいられるのかという考え。美しい音楽があれば理想的だけれど、作曲家はだいたい美しいものを作ろうとしているだろうから、「初めに言葉ありき」或いは「心ありき」だとしたら音楽は後付けなのだと思うのです。
 つまり、僕がシェローから感じ衝撃を受けたことは、オペラ<映画<芝居<人間なのです。
 ヴィスコンティ初期「栄光の日々」で囚人が処刑されるドキュメンタリー。題名忘れたけれど漁民の争い。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」では片足の黒いストッキングがズレ落ちた状態で最後を迎える主人公。「ベリッシマ」の溺愛する娘に対しての異常な母親の感情。「若者の全て」での暴力等、社会の秩序を超越したヴェリズモな表現が中心であったのに、いつからか監督の趣味の世界、貴族的快楽が優先された。あれはあれで素晴らしいと思うけれど。
 シェローはゲイのsexシーンばかりの「傷ついた男」 境界性人格障害の女が出会った男の目玉を刳りぬく「蘭の肉体」~最後の「エレクトラ」に至るまで全くブレがない。お芝居として唯一接することができた「苦悩」ドミニク・ブランの独り舞台(あれはデュラスが憑依していたように見えた。)は、大戦から帰還したご主人が枯葉のように痩せ衰え悪臭を放つ緑色の排泄物を垂れ流し「腹がへった。」と根源的な欲求を明確に表現し、鑑賞する側にも苦悩を共有させた。そして現実をぶった切るように「くそったれ!」と社会を揶揄、唐突に芝居は終わった。母親を殺し踊り狂うエレクトラとの絶望にしてもそう、神話だろうがなんだろうが根源的な人間の姿を鏡に映す。
 今ようやく気がついたことは「愛する者よ列車に乗れ」での死者である画家にしても、水曜日に素性の分からない女性と肉体関係を繰り返す「インティマシー」にしても、「ソン・フレール」では死を前に絶望し全裸で海に向かう男も、もちろん人間ジークムントもシェロー自信だったと思うのです。でも、シェローはワルハラには行かない。それだけはわかる。
 シェローがパスカル・グレゴリーと二人で踊っている動画が見られるのだけれど、あれはどのような舞台なのだろうか。目頭が熱くなってしまった。