ラドゥ・ルプー リサイタル10月12日(鎌倉芸術館)

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 かつて少年は大地に寝転び野薔薇の香に包まれ未来を夢見た。
 恋に人生に挫折した青年は詩人となり悪夢に魘され菩提樹に愛の言葉を刻み、片道切符だけの冬の旅を始めた。
 
 仕事で移動時間が長く、間に合うか心配したのですが、17時45分に大船駅到着。小走りにホールに向かった。
 夏場に仕事を放棄したシワ寄せがお財布に響いているのですが、無理をしてでもルプーが聴きたかった。
 ラドゥ・ルプー ピアノリサイタル 10月12日18時開演 鎌倉芸術館
 シューマン 色とりどりの小品 作品99
 シューベルト ピアノ・ソナタ第20番イ長調 D959 「遺作」
 アンコールが一曲ありましたが、今週初台で最終公演があって、楽しみにしている人もいるでしょうから曲名は伏せておきます。ただ、プログラムを壊すことがない身近で美しい音楽だったと報告したい。
 当日券で正面から聴くわけにはいかなかったけれど、現場にいることが何よりも大切。始まって気がついたことは、天井が高く響きも豊かなホールだから、細かなことには興味がないが、何処の席でも似たような音かもしれないと思った。最近つくづく嫌だと思うのは、録音編集された死者の音楽に対し「ラッパが失敗している」とか指摘したり、機械に拘るがあまり迷宮を彷徨いつづけ、さも幸せと己を正当化する族で、大嫌いな誰かが墨で書いた「人間だもの。」ああいう言葉はブロイラーの不味い焼き鳥屋の日めくりだけで充分。飲みすぎて吐きたくなることが誰だって数回あるのだから、破って口を拭く為には具合がいいし、汚物と一緒に丸めて水を流しリセットする。
 ルプー。素晴らしい演奏会だった。
 最初の「見知らぬ国から」の出だしでどうしても思い浮かんでしまうのは、映画「ルートヴィヒ」で白馬に乗ったロミー・シュナイダー演じるエリーザベトが妖艶な笑みで主人公を見つめる姿。自宅でギーゼキングだったかのレコードを聴くときもそうなのだけれど、昨夜は少し様子が違って、僕が中学だったか始めてお小遣いで聴きにブレンデルのリサイタル。あれは東京文化会館。素直で何でも吸収してやろうという乾いたスポンジ状態の過去の自分を俯瞰で眺めているような可笑しな感覚。お前若いな?
 ある時、僕は好きな女性ができて、彼女が電話で「ドの♭とシの♯、どっちが好き?」と言葉にした。一瞬戸惑ったけれど無意識のうちに♭と答えていて、数秒の休止符の後「そうだと思っていました。」と静かに返してきた。
 ルプー。絹のような或いはもっと薄い微妙なニュアンスが感じられてくる。もっと大袈裟な表現したり棘々していたり色々なタイプの演奏家がいるけれど、今求めたい最も理想に近い憧れがそこにあった。
 「トロイメライ」を知ったのは子供のとき自宅にあったオルゴールが最初。母の学生時代の友人が結婚だか誕生日だかにプレゼントしてくださったそうだが、蓋を開けるとガラスの板に椿の絵が描かれた布が糊付けされていて、着脱できるガラス板の下を見るとオルゴールの仕組みが現れる。いつからかネジが緩んでしまい微妙に♭だと気がついたけれど、元々そうだったのかもしれない。僕は頻繁に訪問してくる母の友人が嫌いだった。何故嫌いだったのか説明が難しいけれど、自分の部屋でイタリア歌曲のカセットテープを聴いていたらノックもしないで扉が開き「誰の歌なの。」と唐突に質問され、「テバルディ」と答えたら「その人は聴いたことがあるから別なのないの?」とその人が言った。そんなことの幾つかの積み重ね、だと思う。でも子供心にそんなこと母に言えるはずもない。
 母が病気になって余命を宣告された時期、見舞いに来た友人に対し「会いたくないから、もう来ないで。」と伝えた。僕は驚いた。その人にとっては数十年間親友だと信じていただろうから当惑しただろうが、こちらにしてもそう、それまで一度もそのような母の言葉を聞いたことがなかったから心の中で何が起こったのかと思った。
 数ヵ月後遺品を整理していたら引き出しの奥からオルゴールが出てきた。ガラス板が半分に割れていた。糊付けされた椿の絵はそのままだから、折れているのにぶらぶらと繋がっている状態。躊躇なく捨てた。
 「色とりどりの小品」においてもシューマンは饒舌に語る。「子供の情景」でも感じていたけれど、目を閉じたまま心の中に入りたくなる。内なる世界は宇宙より広い。遊戯は無限大に存在する。
 休憩時間、外の空気を吸いに出たらお月様がちょうど半分。太陽があって地球があって月の影。ここでもまた現実を直視する人もいるでしょうが、ルプーで聴いていると見えない半分は何処に消えたのだろうと詩的な思考が優先されてくる。
 初対面の人に「妹さんがいるでしょう?」と数回聞かれることがある。実際にはいないけれど、どうしてそう思われるのか奇妙に感じたことがあった。暗闇に隠れた半分に出会ったことがない妹がいるのかな。 
 風が強い。秋の嵐。そういえば最後まで改善されなかったけれど、ホール内の空調が壊れているのか風の悪戯か時々ヒューヒューと音が聞こえてきた。終演後に激怒し文句を言っている人が何人かいた。アラーム音よりは気にならないし個人的に影響は感じられなかった。ルプーは風の強い日にやってくる。
 シューベルト「遺作」
 この音にはこの和音。作為的に並べたお玉杓子が見えるようだけれど、徐々に消えて最終的には気がつかなくなる。それがD959。
 幼少の頃、茅ヶ崎に住んでいて海の向こうに消えていく夕陽を見ていた。真っ赤に染まった夕焼けの先に太陽が沈む瞬間。忘れていた記憶だけれどschezroで急に思いだした。
 「お日様を追いかけていったら、ずっと見えているの?」(3才だか4才の頃)と質問した。たぶん今の僕は当時の母親より数才上だけれど、同じようなことを存在しない子供に質問されたらどのように返答するだろうか。「太陽は速いから追いつかないよ。」かもしれない。
 終楽章ロンドは歌いたくなる音楽。どのような歌詞が相応しいだろうと考えてしまう。それでも生みの苦しみがシューベルト。窓から漏れる月明かりを頼りに万年筆をはしらせたのだろうか、喜びはいつしか苦悩となり絶望となり答えなど出てこない。上手く書けない時は譜面を丸めてゴミ箱か、極度の不安から窓を開け外に投げ捨てたかもしれない。
 ここまで母の話ばかりだったけれど、父は緻密に物事を思考するタイプで、例えば紙飛行機なんかも設計士の如く完璧な仕上がりで、いつまでも飛び続けるような物を作って見せてくれた。
 シューベルトは窓から捨てた譜面に答えがあったと慌てて部屋から飛び出した。紙くずは水溜りの中に落ちていて作曲家は愕然とする。広げてみたらインクが滲んでしまって読むことができない。部屋に戻ったシューベルトはほんの数分前の記憶をたよりにゆっくりと仕事を始めた。そしてミューズが微笑んだ。遺作は絶望にあらず、生きる喜び。
 少年は綺麗に作られた紙飛行機を夕陽に向けて飛ばしてみた。永遠に飛ぶと思われた飛行機は数秒で砂地に落ちた。主題の再現。休止符は想像を超えた長さ。風の歌を聴け
 母の言葉を思い出した。「お日様を追いかけなさい。必ず追いつくから。」
 拍手を受けているルプーの姿が滲んで見えなくなった。