コメント承認制度行使。水戸室内記事の感情的批判に対しての思い。

 ブログのコメントを承認制度にしているのは、仮にCM的なものが入った場合に厄介と感じていたからなのですが、これまでそういうものは一度も送信されてきたことはない。それと記事へのコメント不可設定にしたことも、記憶の限りたぶん一度もない。また頂戴したコメントを公開しなかったこともない。友達間の親密なやりとりや、自分が舞台出演する限定的告知等は別。また折り合いがつかず拒否登録しなければならない対象者はいました。
 
 というのは、前回の記事(水戸室内の感想)に対して批判のコメントがあったから、そのコメントの非公開を試してみようと思ったのです。
 他人を批判するも肯定するも本人の自由だから何を書かれても構わないのは、元々僕は保守的な性格じゃないですし、普段からどのような事例に対してもわりと寛容な立場でありたいと考えている。
 コメントくださった人は演奏会に感動したのだと思う。事実あちこちの書き込みを読めば、だいたいの人が素晴らしいとお感じになっているようで、自信をなくすほどではないにしても、公開コメントの中で謝罪の言葉を使用している。
 感情的批判も良いと思うけれど、可能なら本名で具体的な事柄を論理的にご意見いただきたい。
 そうしなければ対話も成立しない。
 
 
 
 全く感動できなかったことは事実。これは残念なこと。
 ただ、今回マエストロの批判は書いていない。そしてブログとは別にまたブログ上含め同調してくださったユーザーが数人いて、イイネまである。これは事実です。
 若手演奏家にアクセスして感じたままを意見するのもこちらの勝手。いじめのような身勝手な内容ではなく比較的論理的な文章構成を心がけているのは資本主義の原理を行使しているだけなのです。ブログで日常の出来事をお書きになるとは、批判される場合もある現実を受け止める意思がある証。彼女の演奏には強さがある。それでも不快にお感じになっていたのら、改めて謝罪の文章を演奏家にお送りします。それに僕は彼女の演奏を何年も前から好ましく思っていて、寧ろ応援している立場なのです。大いなる矛盾。
 
 これまで欧州や松本への音楽旅行や高額なチケット代金を換算したら家が建つ程度の投資をしてきました。
 小澤さんの演奏会は数え切れないくらい聴きました。その度に心動かされたり幻滅したり色々ありましたが、最も素晴らしいと感じたのは渋谷で聴いた新日のオール武満プロ。辛い舞台だったのは「彷徨えるオランダ人」蜷川演出。2回分のチケットを購入したが、2日目は途中で席を立った。最近ではブログにもある1月の定期4番は素晴らしいと感じました。(あの時はモラレスもアルトマンも団員の中にいました。)
 
 今回のことで若干的外れに感じるのは、人それぞれの意見なんぞどうでもよくて、そんなことより「なぜ感動できなかったか」が重要なのです。思考するか封印するかしか方法はありません。書く場合は社会に迎合するのではなく、評論家より先に発信する勇気が必要です。自分以外の誰を信じることができるのでしょう。それを書いて何が悪いのでしょうか?言論は自由なのです。
 終演後にスタンディングでの喝采があり、誰でも意識は高揚するけれど、かつてムーティへの歓呼の中、拍手もせずに席を立った吉田秀和氏の朝日の記事を読まれましたでしょうか?カラヤンの悲愴他をその日非番だったヴィオラの土屋氏が熱狂する聴衆の渦からスタジオに入り、生放送で所属するBPを批判した言葉をご存知でしょうか?シェローが命をかけてエレクトラを演出した事実を、演出家コンヴィチュニーに向けられた聴衆の批判を、サロネンルトスワフスキ交響曲を聴きに行かれたでしょうか?最近ではカンブルランが7週間かけてマルターラーとの共同制作を発表した事実を受け入れられるでしょうか?それは欧州の舞台を統率したモルティエの遺言だっとご存知でしょうか?ちなみにオランダでは失敗した演奏でもスタンディングが常識化しています。それが歴史の中で育まれた国家の寛容政策との因果関係に精通していると考えたことがありますか?僕は完全ではないにしてもスタンディングは音楽と無関係だと思う。
 余韻や周囲の迷惑も考えずにフライングの拍手や歓声が横行する聴き手の未成熟なあり方こそ問われるべき課題。興奮して騒ぐのも良いけれど芸術的とは言えない。クラシック音楽なのだから。
 リフレインしますが、腹立たしいとお感じなら、なぜ感動したのかを文章化して、堂々と論破してくださることを望みます。もしかしたらあなたが正しいのかもしれない。ご意見は受け入れます。
 面倒にお感じなら拒否登録してください。
 上記は批判ではありません。知識を深めれば景色が変わるのです。物事は意識だけでは解決しない。知識とコミュニケーションと目標設定が不可欠で、評価されようが批判されようが表情一つ変えないモルティエのような意思の強さが必要なのです。理由は芸術の範疇に音楽が所属しているからです。
 
 飛躍して申し訳ありませんでしたが、自分が感動しなかった理由について改めて考えてみました。
 大まかに理由は4つあるように思います。
 ① マエストロの限定されたプログラムを聴きすぎてきてしまい飽きが生じてきた。人は飽きると感動できなくなるのです。
 ② 世界の若手演奏家の驚くべき進化。ここが一番心配なところです。
 ③ これまでの水戸と決定的に異なったのは、サウンドのズレと管楽器のミスが何度もあったこと。
 ④ 指揮者とオケの意思の疎通。→この辺りは記事に表白してあります。
 
 フェイドアウトでも構いませんが、もし問い合わせいただく場合は早めにお願いいたします。
 発言に責任を持ちたいとは思いますが、演奏会は過去の出来事なので思考は次に進んでいるのです。