水戸室内管弦楽団第90回定期演奏会川崎公演

 水戸室内管弦楽団演奏会
 第1部指揮者なし
 メンデルスゾーン 弦楽のためのシンフォニア第2番 in D major
 モーツァルト オーボエ協奏曲 in C major K314
 オーボエ独奏:フィリップ・トーンドゥル(実際には半分指揮しながら演奏)
 ~休憩時間~
 第2部指揮マエストロ小澤征爾
  ベートーヴェン 交響曲第7番 in A major Op92
 5月27日19時~MUZA KAWASAKI SYMPHONY HALL
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 昼間仕事だった関係で、髪型はディップで固めオールバック・ブラックフォーマルにサングラス、駅前の混雑も関係ないのは皆が私を避けてくれる。カフェで時間を潰しほぼ開場時間と同時に入館。ミューザは3・11に天井崩落。その後リニューアルしたけれど、なんとなく他のホールを優先してきたから、震災数ヶ月前のウィーンP以来だったと思いだした。当時の毎○新聞よりお写真拝借。普通の家が崩れずに最新のホールがこの有様。今は安心と言われても「信じるか信じないかはあなたしだい」という気分になるのは「殺す気か!?」とあの時は思った。
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 席に座りサングラスを鞄の中に入れて老眼鏡を取り出したのはパンフの細かな文字が霞んで見える悲しき現実。しばらくしてウィーン帰りで時差が狂った笑顔のT嬢と合流。
 休憩時間にお茶しようと並んでいたら、T嬢が「秋山さんよ」→「誰それ?」→「千の風の」→「それってもしかして秋川さんじゃない?」→「・・・頭がもう駄目だ・・」→「隣のお墓の前で♪」→「隣じゃない!」
 アイス珈琲飲みながら気がついたのは、本当に僕の隣が本人だったから「隣の~♪」が聞かれていた危険性大(笑)
 なぜ千なのか?百でも万でも良いような気がするけれど、詩的なのは千としたら、曲と歌詞の関係性は人為的な歩み寄りの産物。歩み寄りは美しい言葉だけれど別の言い方は妥協。
 以前ブログで告白しましたが、例えばD259の方の「An Den Mond」 あれは何度聴いてもどうわけか涙が出てしまう。ここでのシューベルトには一切の妥協が存在しない。わざとらしさもない。しかも退廃していない。
 Füllest wieder Busch und Tal Still mit Nebelglanz, Lösest endlich auch einmal Meine Seele ganz.
  Breitest über mein Gefild Lindernd deinen Blick, Wie des Freundes Auge mild Über mein Geschick ・・・・・
 ご参考までにヘルマン・プライ ちょっと甘く表現しすぎだけれど美しいゲーテ
 
 
 当初のプログラムでは、一曲目ゲルスター「ティンパニと弦楽のためのカプリチェット」の予定でしたが、ローランド・アルトマンが病気で来日できなくなりメンデルスゾーンに変更になった。アルトマンは水戸芸術館の演奏時、その素晴らしさに拍手を送った。ご高齢だけに心配。ところでゲルスターって誰だ?
 オーボエ協奏曲は席の関係できちんと聴こえてこない覚悟をしていましたが、トーンドゥルは指揮しながらだから時々こっち見て演奏した。2階なら例えB席でもステージ上の輪の中に加わったような緊張感と快楽が同居。彼は音のくい付きが早く極めて流麗な音楽を作り上げる。まるでアルプスの雪解け水が大地を侵食し小川となり徐々に加速し、大きな飛沫を上げながら大河ドナウに注がれる。些か戸惑ったのは、編成が小さいもののモダンなそれは想像以上に大きなボリューム。達人ばかりのオケはオーボエに合わせてピアーノな対応を取り組むけれど・・巧みな表現を音楽的と捉えて良いのやら少々疑問。(上記の歩み寄りにさも似たり)つまり作為的なのは「青きドナウ」でありたい夢見る気持ちを、ここは川崎「多摩川」なる現実に導びき、チケット代金が1万円、パスモの残高3600円、月曜日に年金が引き落としとかどうでもいい現実が気になりだした。
 しかしながら、トーンドゥルの美しき真骨頂はカデンツァで訪れた。繊細なオーボエは大耐震工事された大ホールの微かな隙間に或いは聴き手の罅割れた心の傷に入りこむ。そして真空のような長い休止符。(ティーレマンよ!これが正しい行間だ。)やはりモーツァルトは素晴らしい。
 アンコールがありました。知らない音楽。ヴィヴァルディのような古の響き。アダージョ。ミューザのHPで確認したらマルチエッロの協奏曲2楽章とのこと。
 ベートーヴェン7番でマエストロ小澤登場。1月よりお元気そうで安心。
 1&2楽章・・う~ん・・トーンドゥルとフルートの工藤さんズレてない?それ以上にアワアワしたのは金管の音ハズシ。いまどこにいるのか知らないけれど「バボラーク助けに来てくれ!」
 
 3楽章から徐々に回復したけれど、水戸公演も似たような演奏だったのか知りたくなったのは、明らかにオケが当惑しているように見えたからで、もしかしたらマエストロが精神的に厄介な問題を抱え、もがき苦しみ懸命に理想を立て直そうとしていたのかもしれない。4番を聴いたときは縦の線が強調されていたけれど、前へ前へ進もうとする流線型を帯びた7番。10代のときFMでベルリンPとの同曲をカセットに録音して何度も聴いていた。想像だけれどあの稀有な名演を再現しようとしているのかと途中から気がついて、軽いパニックを起こした。
 youtubeってなんでも見つかる。ベルリンPとの7番は↓の動画4分辺りからコーダが聴ける。
 
 人は誰かが困ったときに手を差し伸べたくなると思う。でも相手の肌に触れた瞬間、本当は自分のためにそうしたかったと気がつく。特に協調性を欠いた2楽章。感情では情緒溢れるアダージョを目的としていたであろうマエストロから、実は鼓動に似たアレグレットが正しいと提示されたようで素直に驚いたが、演奏家はマニュアルとは別次元の共通認識を獲得していなければならないはず。なにも指揮者が絶対的ではなく、奏者からの自発性を求めたくなったということ。つまり歯車が噛み合っていなかった。
 完璧な集団だと思い込んでいた水戸や松本はあんがい不確かで脆い存在なのかもしれません。半永久的に存続するとしたら嬉しいけれど、ある日突然消滅する危惧を抱いた。
 
 しかし感動しなかった。
 ミューザはスタンディングの大喝采
 ドームに現れた長嶋茂雄一般参賀での天皇陛下状態。
 人は大儀を求め狂喜する。
 笑っちゃう。
 
 
 ※全音楽ファンを敵にまわす感想文かもしれませんが、だからどうした。
 以上。