出会いと別れ
数日前のこと、約束だからと紳士宅にご挨拶状を添えて名刺を届けてまいりました。
やっぱり先生の家は無くなっていた。
道すがら段葛の洋食店で友人が働きだしたことを思い出して「久しぶり!」→「ご馳走しますからなんか食べていってくださいよ。」→「今度きちんと自分のお金で食べにきます。」
アルバイトかな?若い女性が慣れた手つきで珈琲をサービスしてくれた。店長を紹介されご挨拶。
夜、初めての男性から電話があった。
話を聞くと洋食屋さん経由で紹介されたという葬儀社の人。
「お会いしたい。時間をお作りいただけますか?」→「葬儀司会でしょうか?やったことありませんが。」→「えーと注意点は・・」→「忌み言葉と宗派によるお経のタイミング?あと急に仕事が入る。」→「完璧です。我々はお盆明けの友引が希望です。」(なるほど、そういう忙しさか。)「僕は暇ですから日時を決めていただけたら伺います。ただ明日とかはやめてください。」虚無なやり取りは村上春樹の僕のシリーズを想起させた。
正直、葬儀には興味が無い。死体を見たくない。遺族の涙を見たくない。あとは自分の精神状態。
それでもお話に対して会って商談。直接お会いすることが礼儀を尽くすこと。友引のアポは近々。
そういえば先輩アナウンサーに「お前の声は葬儀に合っている。」
深夜コンビニに飲物を買いに行った。誰もいない近所の光景。
翌朝(まだ早朝)寝ていたら電話。明け方や深夜の電話はそうとうな用事でもなければ鳴らないから、誰か死んだかな?とか考えてしまった。
「もしもし」→「あ~!雪ノ下の○○です。名刺持ってきてくれたのが嬉しくてさ!」(鎌倉の朝は早い)暫くお話して「じゃあ、またね!」
数時間後また電話が鳴った。某ホテルで行われる巨大なイベントMCの打ち合わせの日時相談。
同じ電話で別のスタッフに代わり、別のMC依頼。
PCを開けば、舞台の打ち合わせ日時の問い合わせ。
痩せたからプロフィール写真変えなければいけないかな。
写真はご馳走になった鯵フライ。湘南の美味。
翌日、大切な友と時間を過した。どうしても話しておかなければならない事があったのです。
非常に個人的な事柄ゆえ中身は書けないけれど、ある種決定的な絶望を体感。
関係ないけれど、FBでとあるグループに勧誘されていて取りあえず所属していたのですが、どうしても肌に合わず退会した。悪意はないのですが、大いなる自由を獲得した印象なのは、無意味で無駄な「いいね」が無くなったからで、つまりかなり心が楽になった。世の中には個人の情報に慎重な立場であるにもかかわらず繋がりだけを求めてくる場合がある。ワンクリックの先にある意味について数秒は都度考えるが多くの場合は理解共感が得られない。実際に会ったことがあったり普段からメールでもなんでもいいコミュニケーションがあれば疑念は生じず微笑ましい関係が構築されるものだけれど、考えることを忘れ厳しい選択に迫られることもないまま日常を過されているとしたら(批判ではない)それもまた社会のメカニズムの一部分だと受諾しつつ、今の自分には不必要な事例なのだと気がつかされる。興味の無い世界をどうしてシェアできるものか意味が分からないのです。
もっと楽しい対話がしたかったな。
それでも乾ききった砂漠に霧雨程度降らせれば、地球の反対側の常識的秩序の一部がカタリと音をたて変わるのかもしれない。しかし、それを友情と認識できるだろうか。僕は言葉による提示が欲しかっただけ。
脳の思考が追いつかぬまま、夏が動きだした。
全く知識がないルネサンス音楽を聴き始めることを決めた。
Lさん、情報提供ありがとうございました。