マゼールとサドとアリストテレスとグリモーと俺

 マゼールの追悼企画で色々な音源が聴ける。
 普段関心のないニューヨークPにしても様々な演奏会録音が取り上げられていて幾つかCDRに収めてみたけれど、コロの演奏会から1ヶ月、まだ完全な社会復帰ができない状況とBGM程度の日常。
 悲しいかな手帳を開けば、今日8月7日木曜日の欄に「PMF19時サントリーマゼール」と書いてあるもんだから、がっかり。
 代役の佐渡さんは今宵「キャンディード序曲」で演奏を始め「革命」で終わるらしいが、まだその辺りで妥協しているのか、同じことの繰り返しでは払戻しも当然の話。ワンパターンは「この印籠が目にはいらぬか!」と何がちがうのだろう。ただし聖なる「模倣」とは異なる。この際改名して「サド」になればいいのに。でも佐渡はサドにはなれない。
 サドを侮るなかれ。
 矢川澄子が翻訳したようにしか感じられない澁澤龍彦版を読むと、たとえ小説でも戯曲というか芝居であると気がつかされ、「文学はあくまでも人間と世界を描くものである。論じるものではない」共通の基準と理解は常に確認されるべき事象であり、ロゴスとポイエマだっけ?思念は創造性を育み精神は上昇する。言葉は肉体ではなく、ある種の記号。音符も記号。これからは新しいこと考えようよと提案したい気分。
 それにしても、2つの原爆の日に挟まれた8月7日にアメリカの音楽なんか演奏するな!な気分。理屈では作曲家の手を離れた段階で音楽は奏者に委ねられるべきとは思う。しかし、バーンスタインはあまりに生々しい。
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 お盆が近いから仏壇を整理していたらバッチが出てきた。
 「小さな目」とはその昔朝日新聞に小学生の詩が掲載されていて、僕が6才の時に書いたものが何故か採用されたのだけれど、記念品として新聞社が贈ってくれたもの。恥ずかしいから詩は公開しないけれど「コマーシャルが無ければいい」という内容。今の自分となにも変わっていないが、唯一誇らしく思えるのは、アリストテレス曰く「詩人の仕事は実際に起こったことを描くのではなく、起こりうること、必然的に可能なことを描くこと。詩は歴史より尊い。」
 僕は収集家ではないが、生きていると捨てられないものが沢山溜まってくる。
 これもそう。
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 ミケランジェリ最後の来日公演のチラシ。名前と日時と場所と金額しか印字されていない究極のチラシである。
 僕もそうありたいのだけれど、プロフィールが不可欠な人生になってしまった。今後無駄を削りたい希望有り。
 というか、もうどうでもいいから、山頭火みたいになりたい。
 引き出しからはこんなものも。茅ヶ崎から北鎌倉まで子供30円の衝撃。
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 radio4で「言葉のないリング」マゼール&ウィーンPを見つけ出した。
 だらだら聴いていたのですが、開始40分辺りから「黄昏の1幕主役2人の二重唱の旋律」は感動的。
 N響やベルリンP或いはピッツバーグでも同じアプローチだったか調べる気力もないし興味もないけれど、ウィーンPで聴くとジークフリートブリュンヒルデのパートの違い?歌わせ方が違って聴こえてくる。しかも見事に絡み合いながら、破綻がない。未来を夢見て加速する英雄の旋律と、悲劇を想起?もっと個人的なブリュンヒルデの心の葛藤が見えてくる雰囲気はマエストロの女性に対しての優しさかもしれない。(シェローはこの辺りが希薄)
 愚かにも何度も繰り返して聴いてしまった。
 マゼールは詩人のように繊細だ。
 歌=言葉=記号のない指環だけれど、オペラを愛する巨匠の音楽は美しい。
 
 
 ウィーンPといえば、最近入手したCD。
 グリモーがネルソンスとオケを操っている稀有な名演はブラームスの1番と2番。
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 書庫はバッチへの敬意を思い「文学」とす。