レコードと「水のいのち」

 土曜日の夕方仕事帰りに御茶ノ水ディスクユニオンでラモーのCDとシューベルトのスコアをレジに持っていったら「中古は3点だと割り引きでお得ですよ。」と言われ、じゃあてんで再び棚を眺めているうちに心の闇の遠くのほうからパニック障害の予兆が見え隠れしはじめた。もし地震が起きたら狭いCD棚のMコーナーが倒れ崩れてきてマーラーに囲まれて死ぬのだな。慌ててシューベルトとラモーを所定の位置に戻し、結果として700円のコロのレコードだけを購入した。「こんな録音あったんだ」が正直な感想で、有名な2曲の「アヴェ・マリア」「楽に寄す」「いらだち」「セレナーデ」等が収録されているが、こんなもん自分以外に買う人はいないような気がする。
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 深夜レコードを聴きながら感じたのは、7月の演奏会と基本同じ歌い方ということで、ドイツ詩の表現が美しい。
 歌詞が先なのか曲が先なのか、愚問であるが同時発生的に誕生したような完璧な音楽。
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 翌日2週間前に迫った自分が朗読&MCする舞台の稽古に始めて出向いた。場所は北本・・湘南ライナー乗りっぱなしで1時間40分はお尻が痛くなるほど遠い。
 今回は高田三郎氏の「水のいのち」なのだけれど、高野喜久雄氏の詩をまず自分で朗読しなければならない。
 それで世間はどのように朗読しているのか気になりyoutubeで幾つか聴いたのだけれど、笑っちゃうほど参考にならないというか?完全に派閥が異なる。
 詩は日本語にしては珍しく韻律的な雰囲気を醸し出し、考えさせられる内容で実に素晴らしいが、本番で噛んだら最悪と申しますか洒落にもならない。
 14時頃、ピアノのS先生が合唱団に厳しく指導されていて、そいつを横から眺めていたのだけれど、音楽が文章と交じり合う当たり前の現実に、ますます作品イメージが遠ざかるおかしな印象を強く抱いてしまった。
 油断ならないのはヒートアップしたS先生が「ここの言葉が大事なの!<空にかえした>を理解して!」そして僕を見ながら「国語の先生なんかアドバイスして!」とか急に振ってくるから、それらしい返事をしなければならない。
 「文章の知見からお話するけれど、皆さんの歌だと<底>が<其処>に聞こえてきちゃう。<空>も同じ。音符でイントネーションが変化してしまうのは仕方ないけれど<底>と<空>を感じて表現してもらいたい。」みたいなことを伝えた。
 この段階で朗読以外のMC部分なんぞ何も考えていない状況だった。
 その後指導責任者のF先生が到着。「堀内君久しぶり。」 
 夕方には振り付けのM先生も到着。皆が必死で、こりゃ大変だ。
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 問題発言かもしれませんが、高野喜久雄氏の詩と高田三郎氏の音楽は融合していないように感じる。
 それと個人的な思いだけれど、詩の中の「とある単語」が不必要に感じられて仕方がない。(音楽の都合が際立つ印象)じゃあどう表現する?と自問自答。
 朗読以外のMCに関しては、皆の元気な歌声を聴いていたら解決した。
 結論として原稿不要。その場で感じたままを喋ればいい。
 あとはゲネプロだけで充分。
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 最近食物アレルギー問題も浮上。
 実情としてコンディションは悪い。
 不思議なのは月に数回のマイクを持つ時と、PCで文章だけはどういうわけか書ける。