ラフマニノフ3番とダンディズム

 ラジオで世界各地の演奏が楽しめる昨今、これは!と思うものを発見した。
 サロネン&シカゴ響の演奏会。特に「中国の不思議な役人
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 同指揮者団体によるルトスワフスキのチェロ協奏曲(セロはマさん)。サロネンのヴァイオリン協奏曲と近い世界に導かれる。影響を受けているのでしょう。
 常任ムーティの演奏も悪くはないけれど、想像の領域を超えていないと言うか、最初から結果が見えてしまう音楽は眠くなるだけ(1812年序曲で爆睡)まだこの世の中に昔とそんなに変化しないスタイルが維持継続されていることのほうに驚いてしまう。
 そんな中、エルダー指揮オールソンPFのラフマニノフの3番は不思議な魅力を放っているように感じられた。
 音楽はムーティと同様?に想像の領域を超越することはないけれど、二人の紳士が紡ぎ出す世界にはダンディとでも表現したらいいのか、知的な遊戯が彼方此方に散りばめられていて非常に好感触。
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 三島由紀夫氏が対談の中でボディビルを例に「ナルシスト」と揶揄されたとき、「学生時代からボードレールに惹かれていた。彼は人に嫌がられても仕方がないような知的快楽をダンディズムと提唱した。私はそれを一生懸命やっているだけ。肉体を鍛えることで社会と戦っている。」等と交わしていたが、そういうものとは異なる。
 想像だけれど、周囲を気にかけず自分の信じたテンポで人生を歩めば要となる光と翳が見える印象。卓越した技術を必要とされている3番であることを忘れそうになりながら聴き入ってしまう。例えば刑事コロンボの犯人役がねっからの悪人ではなく、殺す(殺さざろうえない)状況に必ず明確な理由があって誰からも尊敬される知識人であるとき、着こなしがイタリー高級生地であっても、古の高級ワインだったにしても嫌味には見えてこないことを思い出す。つまり、三島由紀夫は間違っているとラフマニノフは教えてくれる。いまさらだけれどシカゴ響は技術の極限といえるほどに上手い。
 
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 昨夜、吉田秀和先生の番組が放映されていてた。 番組の存在を知らなかったで途中からだけれど画面に釘付け。キーンさんが若い。タイミング的には罅の入った骨董が二度目の来日をした後のよう。対話に鮮度があるとしたら、充分に賞味期限内の出来事で現在でも通用する。相手を思いやるキャッチボールなのだけれど、じっくり聞いてみれば緊張感ある対峙で、時折訪れる単語が研磨された刀のよう。
 テレビの吉田先生は、あの自宅で撮影されたドキュメンタリーでもお洒落だと気がついていて、この写真でも白いシャツは仕立てのいい生地で、こういうのをダンディというのではないかしら。
 ラフマニノフの3番は個人的に戦いの音楽と思い込んでいたけれど、この演奏で聴いていると自愛に満ちた対話(互いの立場を尊重)のように感じられる。
 
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 携帯の液晶画面にノイズが出てしまうから仕方なくショップに出向いた。
 世の中の流れに追随するわけではありませんが、これまでより安いプランでスマホに機種変更。
 便利だけれど、若干煩わしい。