尊厳死と安楽死

 パソコンバックアップ中なのでスマホからの投稿です。(途中からPC)
先日から人の死について考えている。というのも名前は忘れたけれど、アメリカでの安楽死ニュースでそれなりの衝撃を受けたからです。衝撃と言っても亡くなったことに対してではなく、自らネット上に生の期限を配信した現実に驚いた。
 誰もが思う「自分だったら」大切な課題。
 実は母親が他界した時、最初から日本尊厳死協会に所属していて、女優杉村春子さんの本を読んだことが影響しているのだけれど僕はそれに従った。ここでの尊厳死とは、最後まで生きる意思を示し、つまり全ての治療を受け入れ病と戦うことを意味する。(そうじゃない人もいるはずだけれど)ただ脳死状態になってまで維持したくない考え。あとは誰にも死を伝えず年が明けてから葉書で通知してほしい。葬式及び戒名不要との希望があった。
 つまり今回のアメリカ女性とだいぶ趣は異なるから、マスコミにより安楽死尊厳死が曖昧に伝えられている現実に若干ストレスを覚えている。それでもどちらに優位性があるとか正しいとかは考えてもいないし、正直今の自分は判断できる立場にない。
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 先日アブデーエワの演奏会を聴きながら、安楽死を選んだ彼女と同い年なのだなと気がついた。それと似たようなあれだけれど、二三日前にこれまた名前がわからないが朝の連ドラ主人公のブロンド女性もだいたい一緒だと知った。共通性としては皆が美しい。ただ目鼻立ちが良いというのじゃなくて、立ち居振る舞いは成熟した女性のそれだけれど、ふとした瞬間に見せる表情は少女のように感じられ何ともアンバランスで魅力的ということ。少なからずアンバランスは生の証。
 アメリカ女性はテレビで見た動画しか知らないけれど、安楽死を選択しなかった場合いつ頃まで生きられたのか考えないではいられない。というのも母が他界した時代と現在では医学の充実具合もそうとう違うでしょうが、医師から「余命3ヶ月」と伝えられたにもかかわらず、実際には2年7ヶ月生存していたので、良い意味で物事は変化する可能性もある。だからウィーンフィルも聴けたし富士屋ホテルにも出掛けられた。
 そんなことを考えていたある日、NHKのプロフェッショナルで終末を看取る医師を紹介していた。その先生が言うには人生残り少ない患者さんであっても「希望を持てる」そうで、俄かに信じがたいが番組を見ているうちに「本当かもしれない」と思い始めた。人によって状態は異なるだろうがテレビに出てきた末期の男性に関してだけはそのように感じられた。
 しかしながら安楽死はあっていいとも思う。痛みや苦しみは辛い。
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 ところで高倉健さんを見たことがある。2年位前だったかな?
 たまたま取引先の結婚式場(有名な神社。芸能の神様らしい。)に仕事で出向いたときに映画の成功祈願に来ていらした。ミーハーな僕はサイン欲しいとか馬鹿なことを考えてしまったが、取引先の手前クレームになっても嫌なので我慢した。でも自分にもう少し勇気があってアクション起こしていたら伝説の一部分を獲得できていたかもしれないと少しだけ後悔している。テレビで数々のエピソードを聞き、不可能に近いが自分も強く優しい男でありたいと考える今日この頃。「死ぬまで生きた」高倉健さんは母の誕生日に亡くなった。
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 今朝、デブ猫ピート君がCDの上に大量嘔吐(液状化しているの)した。あわれシェーファーとグリモーとアヴデーエワ。怒りのあまり窓から放り投げてやろうかと思った。
 パソコンのバックアップにやたら時間が掛かったマンデリン珈琲に葉巻な午後。