バレンボイム&シュターツカペレ・ベルリン 2/9演奏会

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 2月9日19時~サントリーホール
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
 ブルックナー交響曲第1番 ハ短調 WAB101 リンツ稿
 バレンボイム(指揮とピアノ)&シュターツカペレ・ベルリン 

 数日前にピアノ調律のお仕事をしている友人から「行けなくなったから差し上げます。」との連絡があって、喜び勇んでサントリーホールに出動してまいりました。
 (※実は郵送されてきたチケットを確認したらA席25,000円と印字されていたから、「こりゃ高い!」直ぐに支払いを申し出たのですが・・結果としてお言葉に甘えることになった。友人には近々なにかしらのお宝を郵送することに決めている。)
 バレンボイムはこれまで最も実演で鑑賞してきた音楽家の1人で、ざっと思い出しても40回程度は聴いてきたような気がする。その半分はワーグナーを中心としたオペラで、残り半分はオケとの共演だったりピアノだけの演奏会だったはず。思い返すと最初の実演はパリ管とのベルリオーズだったか?リストかなにかのリサイタルで、最後はスカラ座ヴェルディ「レクイエム」か「アイーダ」かな・・あれベルリンとの「トリスタン」だっけ?
 何年も経てば前後関係がグチャグチャになるは当たり前だけれど、ステージに登場したマエストロは以前と同じようにお元気で、ただ年齢と共に薄れてゆく頭皮とその輝きを見つめると、もう今までみたいに沢山は聴けないのだろうなと若干悲しい気持ちになるのも事実。自覚は無いけれどその分自分だって年齢を重ねているのです。
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開演前の舞台の情景。バレンボイムは弾き振りの場合、ピアノの響板を完全にオープンにするので、わりと何処の席にいてもクリアーな音色を楽しむことができる。
 しかし(自分で買ったのではないが・・)なんでホール真横のRAが25,000円のA席なのだ?東芝とフジテレビお前らいいかげんにしろ!ということはB席~D席は全てPブロックに含まれているのかな。だとしたら大問題だと思う。
 先月公演があったシカゴSや春のベルリンPの金額を確認、そしてまだ発表されていないが秋のウィーンPやオペラはかなりの金額になるでしょうから、貧しい小生は今後劇場に来るゆとりが無くなるではないかと考えてしまう。似たような感覚はなにも音楽に限ったことではなく、生活の全てに不幸の連鎖が侵食しはじめている。
 極端な話かもしれないけれど、もはや生きる資格を失いかけているのです。
 
 
 前置きだけで文章が終わりそうな感じになってしまいましたが、演奏はそれはそれは素晴らしい内容だった。
 まずモーツァルト。僕はどのタイミングで勘違いしていたのかな、何故かあまり好きじゃない26番だと思い込んでいたが、始まればK.595だったから嬉しくなってしまった。マエストロとオケの関係は良好。ピアノで繊細に表現される感情の機微(美しい!)その行間を掬い取るように誰もが丁寧に反応する。大昔のレコードみたいな勢いは存在していない。(あれは過去)ところが作曲家に向けられたアプローチそのものに変化なし。そこに敬虔とでも表現したら良いのかな、まるでバッハのカンタータみたいに精神の内面性が加味された印象。とは言っても正統主義信仰の教義化やら形式化に反対して起こった信仰運動等とは関係ない。まして禁欲的生活とも無縁。マエストロの音楽は年齢と共に無駄が削られ、等身大のモーツァルトが時々笑顔で語りかけてくるみたい。
 そしてブルックナー。(今回のシリーズでは1番から9番までの9曲が演奏されるそうで、ややこしい0番と00番は除外されている。)誰かの反感をかう可能性があるけれど、僕は1番が最も好きな作品で旋律からなにから全部記憶しているのです。ところがこの作品を実演で鑑賞するのは初めて。以前バレンボイムがベルリンPと録音した幾つかのCDを聴いたことがあって、それは3番や5番や8番だったのだけれど、やたら乱暴に感じられ美音とも思えなくて興味が湧かなかった。その思いが変に継続していて今シリーズの購入を拒んでいたのに、見事に裏切られたのだからショックだった。せっかくの名演なのに、形容が難しくて文章で表現ができそうにない・・やっぱり自分には書く能力がない。
 
 だから可笑しなことを書いてみます。
 1楽章では意識が一気に大気圏まで押し上げられたような恐怖。2楽章ではドローンの如く俯瞰でドイツの美しい森を眺め飛行している感覚。それでいて時々訪れる牧歌的な安堵。3・4楽章では太陽系を超えて銀河に投げ出された気分。
 そしていま僕は疲労の中におります。どうやって帰ってきたのか記憶が無い。
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 睡眠薬を飲んで寝ます。