怒りと賞味期限と人の心

 毎朝Twitterをチェックすることが癖になっています。
 フォローしているのはオペラ好きの人が中心だけれど、あとは短文の中から「清き心」が見え隠れする芸術愛好家もしくは表現者。たぶん現段階の小さな繋がりで最も汚い心は自分かもしれない。つい本音を書いてしまうし、会ったこと無い人と基本繋がりたくない。面倒な出来事は社会悪。それより僕は独り海を見つめていたい。
 ただメリットは情報の速さだけではなく、どうやら知識の向上に役立つことを発見したから。とは言ってもブログと対峙するとき、既に大昔の情報になっている場合もある。それに興味のあることは氷山の欠片に過ぎず、全てを認識する気持ち等はさらさらない。
 しかし「人々よ、そんなに急いでどこに行く。」・・「偉そうに音楽を語り、お前は誰だ!」・・「何度読んでも意味不明。」様々な人間模様が寂しさを埋めながら社会と繋がっている。
 そんなとき思うのは「静かに行く者は遠くに行く。脱力したまえ。」


 以下Twitterからの引用箇所があります。お許しください。 
 ※ティーレマンドレスデン国立とサントリーで演奏会。まさに曲が始まる指揮棒が上がった瞬間、客席のどこかのスマホから音楽が流れだしたそうな。
 ここからは想像だけれど<秘かに録音しようとした誰かが間違えて再生ボタンを押した>説が浮上している。
 ティーレマンといえば日本じゃないどこかでブルックナー8番を指揮していたときに、3楽章で咳を繰り返すお客にイライラしていたみたいで、終楽章が始まる前にそのお客の方角を見ながら「白いハンカチ」を振ったという。
 この先は僕の想像だが<会場から出て行け!>を意味するように思う。でもN響定期とかの楽章間での目立つ咳やフライングブラボーと異なります、急に気管支炎のような状況だったなら。もしその人が僕だったら我慢ならないように感じた。
 こちらから「赤いポケットチーフ」を取出しマエストロに向けて投げつけるかもしれない。
 ハンカチを投げる意味・・「椿姫」や「オネーギン」がお好きならご存知のはず。それは決闘を意味する。(本当の合図はチーフではなく白い手袋。貴族は正装だからね。)そう、大切な女性を護るために男は武器が必要なときがある。だいたいコンサートは独りで行くけれど。イメージとしてはアーサー王伝説エクスカリバー
 ※法律で禁止されているから誤解のないように。心配なのは咳を繰り返していた人の心である。
 一生ブルックナー聴けないくらい傷ついたのではないかな。

 ※先日武蔵野でゲルバーのリサイタル「ベートーヴェン・プログラム」があったそう。
 ソナタ3番の4楽章で咳を何度もした人がいた。そしたらゲルバーが演奏しながら「After!」と叫んだ。つまり「後にしろ!」という意味かな。教えていただいた人の情報では急に音量がでかくなり怒りの感情が込められているように聴こえたとのこと。
 休憩時間後の15番《田園》でまた咳込む人がいた。(別の人かな)そうしたらゲルバーは演奏を中断。咳の方向を睨み付けた。そして右手を差し出して「Cough<咳>)」。間を空けてまた「Cough」。 
 たぶん「今の時間に全部咳をしてしまってくれ。」だと思う。 
 会場は沈黙だったらしいが、武蔵野じゃなくサントリーだったら騒ぎになっていたかもしれない。
 ゲルバーといえば吉田秀和氏が頻繁に文章にしていた印象が強く、単純な気持ちから聴いてみようかなと思ったことがありましたが、生理的に苦手な音楽を奏でるタイプだったので、個人的には過去の人。(現在77歳)日本に来ていたも知らずいたけれど、今回の行動は勇み足どころか、あってはならないことだと思った。
 現場にいなかったから意見する権利資格はないけれど、表現者としてのゲルバーは賞味期限を失ったのです。「After!」にも問題はあるけれど、ベートーヴェンを自らの判断で中断させたことが大きい。
 
 自分も似たような経験を何度かしていて、舞台で喋っているとき、今でこそ少なくなったけれど携帯が鳴って混乱したことがあります。一度はコンサート出だしの「司会のJHです。」でいきなり着信音。
 基本原稿を持たないので、喋ろうとしていたことが頭から全部吹っ飛んで混乱した。ある時から未就学児童お断りにした演奏会もあって、静かにしていられないのが子供の仕事だから仕方がない場合もある。しかし動揺はするけれど怒りを感じたことはない。そんなことよりどうにかしようと思考が働く。
 そして不器用ながらどうにかしてきた。
 
 ティーレマンとゲルバーの行動について「表現者としての権利」と主張する人もいるでしょうし、考えはそれぞれだから意見を交わす気力もないけれど、想定外のハプニングが起こった場合。全てが悪い方向に傾くとも限らない。何故あのときに特殊な「現象」が発生したのか、その時に何故あの演奏家は何事もなかったように感動を提供したのか。何故あのタイミングだったのか。
 言っている意味分かりますか?プラスに働く瞬間がライブにはあるのです。
 昔読んだ本に末期癌で動けないウィーン在住の人が「コシ・ファン・トゥッテ」が聴きたいと言葉にした。それを知ったカール・ベームが彼を国立劇場に招待した。その時間だけ痛みを全く感じずにモーツァルトを彼は楽しんだ。
 CDにもなっている有名な演奏では朝比奈隆氏がリンツブルックナーが眠る聖フローリアンで7番を演奏したとき、楽章間の沈黙時に教会の鐘が鳴った。鳴り終わるのを待ち、マエストロはタクトを振りはじめた。
 たぶん、こんなことはいくらでもあると思う。
 楽聖への尊敬と努力、ピュアな精神が芸術を完成させる?のかもしれない。
 かねてからティーレマンの音楽には、ゆとりと申しますか遊びが足りないと聴こえていて、頑張っても鐘の鳴らない指揮者かな。下手したら鐘を鳴らしてしまうことを考えるかもしれない。

 それに比べて自分の小さいこと、皇居の近くで婚礼の司会をしていたとき、来賓スピーチで「大道路を隔てた池で育った子ガモを母鴨が一生懸命車に注意しながらお堀に引っ越しする光景を先ほど見ました。お二人にはそういう温かい家庭を作って欲しい。」心和むお言葉。
 その時会場スタッフが「JHさん、このあとメイン料理なんでしばらく歓談の時間お作りいただいていいでしょうか?」・・「了解しました。」と答えメニューを確認したら、「子鴨のロースト」(驚)
 なんでこうなるのかな。
 「素敵なお言葉ありがとうございました。これからメインのお料理をゆっくりお召し上がりいただくお時間をご提供させていただきます。では・・子鴨のローストです。」
 披露宴会場は大爆笑。笑わせるつもりはないのだけれど、なんかそっち方面に流される。
 
 今日は違うこと書くつもりでいたけれど、また変わってしまった。