ギーレンその2


 先日のブログコメントの中でブロ友にご教示いただいたギーレン発言は上記の参考によるものだそうです。英語ですが、ご興味のある方はお読みになるとベートーヴェン及び欧州音楽変遷について新たな考えをお持ちになるかもしれません。
 ちょっとしたタイミングでギーレンがBBC,sym&chorで演奏した記録を聴くチャンスがあり非常に興味深く思われた。普段第九なんて家で鳴らすことなど無いのですが、演奏会の前半はシェーンベルクワルシャワの生き残り」が取り上げられていて、日本年末の「友よ・・歓喜を」のような単純な構造ではなく<希望も絶望も人間の所業>である認識をまず聴衆に与え、おそらく休憩時間をはさんで第九での「友愛」を聴かされる。これは恐ろしい飛躍。「ワルシャワの生き残り」の元の形まで知識がないのですが、英語歌詞が正しいのだろうか。
 参考までにホルスト・シュタインのバンベルクsymでヘルマン・プライの動画。歌と言うより怒りに満ちた語り。
 先日NHKで戦争ドキュメンタリーとドナルド・キーンさんの追悼番組を観ていて(キーンさんは文学からの見識が中心だが)あれだけの被害を受けながら「戦争責任はない。原爆は正しい。」と豪語する米の人々。教育もまた矛盾に満ちたもの。正しいわけないと当たり前に思うが、ギーレンの言葉がここにも当てはまるなら「自由、平等、友愛」は<実現する望みのない純粋な理念>ということ。シラーもフリーメイソンに所属していたのでしょう。
 「所業」個人的に短絡的な思考しかできない僕は「猿蟹合戦」を思い出してしまった。おとぎ話は都合のよいように書き換えられ伝承されるが、芥川龍之介が「青空文庫」だったか?記憶が曖昧ですが、鋭い悪事として指摘していたと立ち読みで記憶している。時代に関係なく人間本来の姿は希望も絶望も無い無秩序で愚かな所業。
 参考にもならないでしょうが、以下はギーレンの正規盤第九の音源であります。
 ただ、稀有な音楽的解釈は気がつくと思う。その先は追及しなければ困難。
 基本アプローチは似たような構成なのですが、編集が施されたCDではよほど疑い深く神経の研ぎ澄まされた人じゃなければ感じ取ることは不可能に思われる。
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 MFさん曰く「ツィンマーマン晩年の作品《私は振り返り、日の元にすべての不正を見た》Ich wandte mich und sah an alles Unrecht, das geschah unter der Sonner  (Gerd Böckmann · Robert Hunger-Bühler · Heinz Holliger · WDR Sinfonieorchester Köln )のアフターに第九というケースもあったとか。冷静ではいられない。
 参考資料としてWDRでホリガー出演のものがあったので貼り付けました。
 テクストは旧約聖書カラマーゾフの兄弟の大審問官の場面・・ 
 旧約も新約も聖書はあるけれど現在精神的に読むのが困難なのですが、たしか「カラマーゾフの兄弟」大審問官のシーンでも「答えが出せない」いわゆるパラドックスという共通項がある。
 立ち読みした新しい亀山氏のそれでもヒントもなにもない。あれは嫌いな翻訳。
 その辺り詳しい友人がいるのですが(わざわざモスクワまで出掛けて「罪と罰」の原書を購入してくる謎のコピーライター。昔は玄関にレーニンワーグナーカメハメハ大王の像が並んで飾ってあった。)これまた精神的に電話で喋ることが困難な状況なので、昨夜家人に「彼とつき合っていいから調べておいてくれない?」と伝えたら「やだ!サロネンかカウフマンなら行くけれど。」とのこと。
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今夜カンブルランを聴いてきますが、数日間ギーレンばかり聴きまくり脳が些か狂いだしている。マーラーsymは3.4.6.7.8.9.10をブルックナーsymは1.2.3.4.5.6.をブラームスは3.4番をとりあえず鑑賞しました。これは自分にしては驚異的な出来事で、しかも2度が大半。ブルックナー6番は3回聴いてしまった。振り返れば嫌いな曲ばかり残しているがここまできたら挑戦してみましょう。
 
 頭を使ったぶん今夜の「グレの歌」に何かしらの効果が期待できるかもしれません。
 ※一部MFさんの文をそのままではありませんが引用しました。
 お許しください。