6・15 声なき声

 60年安保から50年、今日は樺さんの命日「声なき声の会」に行ってきた。
 池袋の会議室には約60名が集まっていた。
 若い人は少なく、それでも意見交換等に期待していましたが、当時を知る年配の人が的の外れた長い思い出話ばかりするのだから、悲しい気持ちになってしまった。
 私はこの会の趣旨も満足に知らずにいたのですが、彼らの中ではあの時代で思考が止まっているように思われ、意見する気持ちにもなれない。
 何の為に此処に来たのか解らなくなってきた。
 特にかつて新宿駅前でフォークソング集会されていた人が歌いだした時は、偽善的な(ご本人は真剣だろうが)樺美智子追悼のそれで、苦痛のあまり逃げ出したい衝動にかられた。
 私はこういうタイプの歌によくある「優しさ」が生理的に駄目なのです。
 進行は最後までもたもたし、決められたような質疑に対して決められた人が答える形、興味深いものは少なく(現役新聞記者の解説はためになりました)退屈なスピーチばかり、しかも問われた内容から脱線し関係ない話になるのだから、誰も聞いていない。
 恐らく会は何も変わらないまま今後も時間だけが無駄に消費し、近い将来消滅するのではないだろうかと思われた。
 終了後、私はここまで来たのだからただ帰りたくなく、誰かに話を聞きたくなり樺さんに近い人を探した。
 そして国会突入時に1列目にいたという当時東大文学部の男性と話ができた。
 記憶によると樺さんは前から3列目にいただろうと仰っていた。
 東大生が先陣を取り、前から文学、2番目が農学、法科経済はその後ろだったそうで、本の記述は間違いであるとのこと。
 先頭は恐く、学内暗黙の取り決めで偏差値のいい法経は後ろだったそうだ。
 文学部が先頭でなければ樺さんは助かったであろうとも言う。
 私はあえて「過激なデモ以外に方法はなかったのでしょうか?それと他の学生にも理論は浸透していたのですか?」と訊ねた。
 「私は死ぬかもしれない。だから本当は反対したかった。しかし考える余地はありませんでした。あれは時代のブームみたいなものでした。樺さんは真直ぐな人で、あの日何万人がいたのか判りませんが、大勢の東大生の中でも真のブントは僅か20人位でした。」と静かに言葉にされた。
 
 帰りに同席していた若い女性と話しながら駅まで歩いた。
 A新聞の社会部記者で、目的は取材とのこと。
 私は感想を、その遣り切れない思いを彼女にぶつけてしまった。
 「ジャーナリズムは信用できない。」と随分失礼な言葉だ。
 しかし共感していただいたみたいで少し救われた。
 雨が強くなってきた。
 どんな記事を書かれるのだろう。
 そのまま献花も取材するらしく駅で別れた。
 私は精神的に限界でとても議事堂まで行く気力が無く、一度降りたエスカレーターをまた上り芸術劇場の前で濡れながら煙草に火を点けた。
 50年はいくらなんでも長い。
 生まれる前で当時を知らないけれど、我々は変わらない安保の上にいる。
 気持ち悪いくらいに疲れ吐きそうになる。
 近くに浮浪者、酔っ払い、変な男女、携帯メールに夢中な人、高校生、風俗の呼びこみ、バスの長い列。
 私は、また死に数メートル近づいたのだ。
 駅に戻りグリーン券を買った。
 デモみたいな混雑した電車には乗りたくなかった。
 何故かブラームス第4交響曲の2楽章が頭の中でグルグル鳴っていた。