フォアグラと貴婦人

 取引先でパーティがあり列席してきました。
 いきなり乾杯発声を指名され当惑しましたが、何ごとも経験、やってみたら気持ちいいものでした。
 私は性格的に営業トークのわざとらしさが苦手、とりあえずしっかりと挨拶はするものの食事が始まれば後は和やかな時間を過ごしたいと願い、目の前にはフォアグラ・黒毛和牛・タラバガニ等のご馳走が並んでいるのだから、大きな声で 「いただきます!」 職人の心意気を感じながら食を楽しむのがシェフに対しての礼儀であり、全ての関係者に感謝の気持ちを表したいということ。
 今日みたいな贅沢が毎日続くとしたらカロリーが気になり大変だけれど 「今日ぐらいいいではないか。」 仲間と過ごす場は好きだから、時間の消費も何時もより幾分早く感じられた。
 これが「今日ぐらいいいではないか。」の正しい使い方である。
 人生は出会いがあり、その繋がりで偶然に与えられた環境があり、時をあわせ形成された食に対しての満足感、このタイミングを精神の一期一会と呼び、お酒がすすむ他のゲストを尻目に、もう一皿のフォアグラが「食べて」と料理自ら私に語りかけてくるのだから仕方ない、食べるとしよう。
 私はフォアグラを舌の上で転がしながら、濃厚な香りが喉から鼻にぬけ上質な油分から微かな獣の臭いをかぎつける時、女性のワインを飲む慎ましやかな表情が視界に入れば、これ以上のエロスはないと考える。
 残念ながらそこまでの祝福は訪れなかったのだから夢想するしかない。
 いきなり話が飛びますが、先日買ったCDサロネン指揮「幻想交響曲」は素晴らしい演奏。
 全てのクラシック愛好家に聴かせたい気持ちになるのは、世界最先端の知性と技術と行動力が此処まで前進したのかと、特に「古い演奏が最高」と、現在のそれに耳を傾けない人たちに如何にかして聴いてもらいたいと思うのです。
 メンゲルベルクとどちらが優れているのか、ミュンシュとどちらが情熱的か、なんていうのはどうでもいい。
 進化の過程に耳を傾ける時、当然反感を感じる人がいて結構。
 爽快に流れるように構築される情報量の多い幻想は、現代の巨匠が「阿片」のそれではなく、「スパークリングワイン」程度の毒っ気で聴き手を夢中にさせ、知らず知らずのうちに酔いが回ってくるのです。
 例えるなら甘みの少ないシャンパン「ヴーヴクリコ」 。
 豪快なコーダは速度と音量増加、体内では強烈な薔薇の香りを発すも脂肪と皮膚に遮られ、表面の気だるい体臭アリュールのように独自の個性として開く。
 貴婦人は進化する美しき音楽家に花を手向けたのである。