12・31(マルターラーのトリスタンとイゾルデ)

 バイロイト音楽祭で昨年収録された「トリスタンとイゾルデ」のDVDを購入してみました。
 先日聴いたばかりのテオリンが出演しているから観てみようかなという気持ちになった訳。
 このプロダクションは2005年に大植英次がタクトを取り評判になったもののブーイングを浴び一年で降ろされ、以降ペーター・シュナイダーが担当、演出は初演当時散々酷評されたクリストフ・マルターラー。
 トリスタン Robert Dean Smith
 イゾルデ Irene Theorin
 マルケ Robert Holl
 クルヴェナール Jukka Rasilainen
 ブランゲーネ Michelle Breedt 他
 ネットで調べると全体的に評判が悪く、人によっては「訳が解らない・・大植が降ろされたのも演出家の責任・・」と論理から逸脱し、かと言ってシュナイダーが評価されているのでもなく、だいたい舞台の善し悪しを個々の歌手に向けられた内容が多いのだから、初めて観る立場に対し参考になるそれは極めて少ない。
 例えば「スミスは体力的に厳しい」とか「テオリンは叫ぶ・・」等である。
 確かにテオリンは部分的に叫んでいるように聴こえるのだから仕方ないけれど、マルターラーの演出とは恐らく関係ないのは新国でも同じように歌っていたから、それがテオリンなのだと思う。
 ではスミスは・・あんなもんだろうし私が聴いた彼はもっと駄目だったから、きっと収録の日は調子の良い方で、つまり批判する気持ちになれないのは相当頑張っていると思うから。
 それで如何だったかというと、私はとても面白く観た。しかも2回続けて観た。
 内容は細かく説明するのが大変なので適当に書きますが、我々が慣れ親しんだ神話的「トリスタン」では無く、現代を構築してきた社会構造を象徴するように極めて鬱陶しい人間関係がテーマになっているみたい。
 これは主観ですから間違いかもしれないけれど、以下私なりのそれぞれのシーンの意味。
 一幕、大きな船室・・ナチスの迫害を受け家族を失い、しかも精神的に病んだユダヤ人が何らかの手段を講じ自由の国アメリカを目指している情景。
 二幕、知識豊かな彼らは異国アメリカで成功し多額の財産を取得、表面的には誰もが憧れるブルジョアな生活を送っている情景。
 三幕、豊かな生活を手にしたものの民主主義における自由とは、実は全てが国家の監視下にあり、そこでは人間関係は稀薄で信じる心も否定され自らの命を守ることのみが優先される。例えば美しく「人民の為・・」等と言葉にしていたとしても、格差は広がり真の平等は存在しない。それでも管理された国家は機能し続ける。
 舞台は積み木のように幕ごとに重ねられ、新しき人生は一般的には過去の上に形成されるだろうが、ここでは過去が上に重ねられ、つまり現代は過去に押さえつけられた底辺に位置し、境遇を回避することはできない。
 トリスタンはただの死体になり転がる。
 イゾルデはポケットに手を入れ客観的立場を貫き通す。
 関係者は事実を見ず壁に向い舞台の終焉を待つ。
 そこで「愛の死」が歌われる。
 我々に休息は許されない。
 思考しなければならない。