マルターラーのトラヴィアータ
夢中になってしまい、一幕だけですが観てみました。
この二人がヴェルディに相応しいか疑問はあるけれど、特にシェーファーの声はルルやモーツァルトの時みたいに自然に感じられなくて、それでも鑑賞することで敵を作り続けるようなマルターラー演出にシェーファーは不可欠な存在に思えてくる。
舞台はヴィオレッタのお屋敷というより近代的ホテルのロビーに見え、後ろにクローク、客人が数字の書かれたタッグを受け取り「乾杯の歌」の時に奇妙なポーズ(見方によっては踊り?)をとりながら客席に向かって数字を見せ付ける。
数字の意味なんて解らないし考えないし、最初から意味は無いのかもしれないし、だからどうでもいいけれど、昔ながらの夢のある悲劇を期待して劇場に来た人には「なんだこれは!」となるのだから、フランスあたりの個人主義的でストレートな生き様を見ているように感じられてとても面白い。
何故か私は映画「キリング・ゾーイ」を思い出した。
我々の生きている日本が協調性に溢れ如何に普通で幸せなのか気づかされる。
映画で得た感覚と「トラヴィアータ」は無縁だと思っていたから若干の違和感を覚えたけれど、それは出だしの1分だけで、私は直にマルターラーのマジックに魅せられてしまった。
恐らく個人主義を優先させ愛や融和にも一定の距離感を持つ。
夢は持ちたいし、仮に人生が華やかなる貴族的快楽に近い立場なら、誰でも幸福の永続性を求めるだろうけれど、人間は所詮いつでも死と隣りあわせで普段の生活だって速度ある偶然の寄せ集めに過ぎないはず。
カウフマンもシェーファーもマルターラーの舞台では歌手以前に役者であることが求められ、そうしなければ存在が浮く。
歌手として声の調子が良いのは断然カウフマン、見た目にかっこいいのもカウフマン。
しかし浮いて見えるのもカウフマン。
シェーファーの「花から花へ」当然のようにキーを上げずに演技に徹し、闇の中独りスポットを浴び、最後に咳き込む。
素晴らしい!
美しい!
惚れた!