小澤征爾 サイトウキネンオーケストラ カーネギーホールライヴCD

 奇跡だとか復活だとか世間は感情移入するけれど、感傷的になってはいけない。
 余計な気持ちを排し聴く。
 そして評論家みたいに音楽の細々した感想は書きたくない。
 功績と力量と気迫。
 明瞭な形を成して確固たる現実に根をおろす。
 遂にこういう音楽が鳴ってしまった。
 ブラームス交響曲第1番 小澤征爾指揮 サイトウキネンオーケストラ
 昨年12月14日、カーネギーホールでのライヴ録音 (DECCA)
 テンポは若干遅めで、それでも特にブラームスの場合は音楽上の質が速度に左右されないように聞こえてくる。
 実演に接したなら、他に類を見ない素晴らしい時間を過ごせたように想像するけれど、さぞかし張り詰めた緊張感に疲労を強いられたのではないだろうか。
 つまり聴き手だからといって身軽で無責任な立場なんか取れないし、どう感知し、どう知識を得るか此処では思考が要求される。
 そして私は単純に幸も不幸も差別されないように感じられるのは、何度聴いても全体の響きが個性とは無縁な連鎖に組み込まれていくように思われるから。
 誰のために何のためのブラームスなのか、音楽上はドイツ・オーストリアの生物学的な血の繋がりが齎す旋律だけれど、寧ろ不思議なもので日本の水墨画や竹林などを想起させ、言霊ではないけれど、もし音霊という語が存在するならば魂が揺さぶられ感情が刺激され、それでも最終的には祈りに似た静かなる情念を見出す。
 小澤征爾が日本人でありながら西洋音楽を志し当初は葛藤があったといつか聞いたけれど、最早多様性に応えられる世界であり、西欧の意識だとか日本の意識等と発生しようがない。
 つまり相対的である。
 終楽章の有名な主題では、松本でのセレナーデ以上に細心の注意が払われ、室内楽のように自発的に、そして超自然的な健気さ無駄の無い哀しみの歌を響かせる。
 私はこれほどまでにデリケートな演奏を聴いたことがないように感じた。
 資料によれば楽章ごとに小澤は水分を補給したとあるが、その無音の時間もCDに入れてもらいたかった。
 間も音楽の要素と考えたいとするは日本的で身勝手な発想だろうか。
 私は意識だけでもと12月のニューヨークに思いを馳せる。
 会場で指揮者を見つめ、ブラームスに導かれ全ての秩序が整う時、見知らぬ影が忽然と湧き上がり、音と光は集約され闇となり新たな命として生まれ出る。
 4つのファンクション。聖と俗、公と私が上手く溶け合い機能した演奏。
 聴きなれたブラームスに改めて人類普遍の感動があると知った。