今年初の舞台鑑賞。「苦悩」ドミニク・ブラン。

 今年になって初めての舞台鑑賞は音楽に非ず芝居。
 他人がどう感じたなんか興味も無いけれど、久しぶりにインパクトのある舞台鑑賞になりました。
 大袈裟な話じゃなく人生における大きな体験だったといえる。
 両国のシアターχにて主催は東京日仏学院
 最も尊敬する演出家であり映画監督シェローの生舞台、しかも名女優ドミニク・ブラン(危険な女性だ)の一人芝居なのですから気持ちも高ぶる。
 ご存じない方は経歴など是非お調べください。
 開場時間前には劇場に到着し後ろの方でしたが如何にかセンター席を確保した。
 時間と共に息苦しい程に満席となり、あちらこちらから勝手気ままなフランス語が飛び交い、しかも西欧特有の香水と体臭が充満、普段の映画や演奏会みたいな緩い空気は存在しない。
 装置は極めて質素で、右から鞄やノート等の小物が置かれたテーブルと椅子があり、其処には既に女優が背を向けて腰掛けているからデュラスの書斎であることが解る。
 事実このテーブルは書斎を意味していて作品の前半、創作した記憶の無いデュラスの独白と帰らぬ主人を待つ苦悩の日々、結果が伴わず堂々巡りになる内向的な言葉の連鎖が演じられる。
 センターに椅子が一つ。
 ここでは主に心の葛藤が巧みではあるが非常に解りやすい言葉で表現され、時には原書に無い如何にもシェロー的な社会風刺、例えば「糞ったれ!」舞台の縁まで進み出て天井からの光を浴び狂ったように直接観客の目を見つめ、国家を人種を言語を超越し人類の存在そのものを揶揄する。
 左側には縦につまり手前から奥に椅子が幾つか並んでいて、話が前後するが、役所での情報収集等の社会機能を前に、市民は常に無力でなければならない不条理を象徴しているかのよう。
 始まる前からブランがステージ上にいることは、観客は最初からデュラスの生活の一部を傍観しているような錯覚を起こす仕組みか、劇場に入ったら最後我々にも思考しなければならない状況を演出家は無言のまま提唱する。
 作品は多少の抜粋はあるものの、ほぼ原作そのままで台本は勿論のことプロンプターもいないのですから、女優は100頁に及ぶ「苦悩」を全て暗記、それ以上に記憶を無くしたおぞましきデュラスそのものが憑依しているかのよう、約90分間ブランは語り演じた。
 「苦悩」における最も目を背けたくなる、主人が帰還し熱に魘されながら17日間緑色の泡立つ排泄物を流し続けるシーンは読書時よりも現実味を帯び舞台の頂点を司り、シェロー塾の名優多かれどドミニク・ブラン以外の誰が表現できるか考えられない。
 原作では離婚に向けられた理解不能なデュラスの思考、虚無な海辺での療養等の表白があるが、舞台では粘り気のあった排泄物が緑色ではあるが液体となり、一日に7回スプーン一杯のお粥しか口にできなかった男が初めて食欲を示す箇所で唐突に終る。
 「腹がへった。」
 破綻の無いようにバランスを考えそこでシェローが終わりとしたか、別の論理が働いたのか謎であるが、私は少なからず最後に希望が感じられた。
 夢見る気持ちのような軽薄な意味ではなく、【希望とは重く心に圧し掛かり他に選択種のない、生きることを受諾しなければならない極めて無意識で無気力な言動】である。
 本を読めば未来は全て苦悩に重ねられた現実と理解しなければならないが、人類は言語を持つ種族であり、言葉を発信することで初めて意思の疎通を獲得するもの。
 つまり「始めに言葉ありき」と感じた。
 会場に来た人たちの中には寝ている人もいた。
 大半が原作を読まずにいることも何となく感じた。
 シェローの業績を知らずに軽い気持ちで観ていた人も多かったのではなかろうか。
 恐らくだいたいがその程度だと思った。
 愚かな連中ばかり。
 糞ったれ。
 私は暫く演奏会やオペラに行けないかもしれない。
 これ以上の何があるのだろう。