詩人の恋

 月末。地震の余波で非常に・・少ない金額の請求書を作成しポストに投函。
 それでも仕事依頼のFAXが届いたりして確実に立ち直りの気配か、微かに先の方で陽炎のように見えたり消えたりする。
 五月が近くなれば、ちょうど今日なんかも暑すぎず寒すぎず、吹く風も爽やか、小鳥のさえずりも聞こえる。
 早いものでシューマン「詩人の恋」の季節である。
 ハイネの詩のよれば、古都ケルンの大聖堂内に恋人に似た聖母マリアの絵姿がある。
 以前ドイツを旅し、その時は真冬で大晦日だったのですがケルン駅から降りてみたら、目の前に大きな聖堂が建っていて、その日の宿やオペラのチケット手配なんかどうでもいいから、まずは恋人の絵姿と思い中に入りました。
 当たり前ですがあれだけ巨大な教会には聖母マリアが沢山描かれていてどれなのか判らない。
 それでも、特に印象に残っているのは正面から入りすぐ左手に置かれている最初に見つけた小さなマリア像。
 あれは木彫なのかな、白を基調にした塗料で施されたマリア様を囲むように無数のキャンドルが点されている。
 さっきまでの駅の殺伐とした寒さから、更に温度を低くしたような張り詰めた緊張感に鳥肌が立つのは、気温だけの問題ではなく、集う人々の敬虔な祈りの輪が大きな力になって迫ってくるように感じられるから。
 ある意味居心地は良いのですが、歴史と文化そして生と死が融合した恐ろしい世界。
 観光気分で気軽に入っていい場所などではなく、異なる文化であっても此処の文化に従わなくてはならない。
 自宅近所の大仏や長谷観音に多くの外国人がいるように、今は原発問題で少なくなったけれど同じような立場なのかもしれません。
 ケルン大聖堂を訪れた日を境に私の中で「詩人の恋」に対する考えが微妙に変化した気がしてならない。
 それまでは美しいハイネの言葉やシューマンの旋律が先にきていたけれど、当時彼らだって生きることに必死で、苦しみや痛みに誰よりも敏感すぎて、仕方がない、それでも生きていかなければならない現実に苛まれ、普通なら避けて通りたい道を己の魂を投げ出し歩むことで人生の意義を見出した。
 その日常に当たり前にさりげなく存在していた教会だった。
 恋人に似た聖母マリア様は祭壇の真後ろ、詩に表現されているように花々や天使に囲まれた穏やかな表情の絵姿を見つけ出した。
 ただ、本当はあの小さなマリア像なのではなかったのかなと今では思います。
 レコードをヘルマン・プライで聴いてみます。
 窓辺に南部風鈴をぶらさげてみました。
 
 こういう文章は書庫の分類が難しい。
 シューマンよりハイネを尊重し「文学の話」にします。