マーラー 巨人

 
 交響曲第1番「巨人」 ピエール・ブーレーズの指揮。
 何も考えずに聴き始めて、「おかしい。ロンドン響が上手すぎる・・」ディスクを取り出したらCSОと書かれていたから納得、私の間違いでシカゴ交響楽団でした。
 この前に記事にしたショルティ盤の8番もシカゴ響で、普通の感覚で思うのはどう考えても世界一の確かな技術を持ち合わせたオーケストラだと感じる。
 人気ではウィーンやベルリンに劣るけれど奴等の技術は超人的である。
 シカゴ響の「巨人」といえばテンシュテット指揮のライヴ録音が有名で、あれはマエストロが癌になり死の想念に取り付かれていたのかな?ライヴならではの壮絶な演奏で色んな録音の中でもベストだと思っている。
 ブーレーズの場合は、比較的おとなしく始まり、正確なリズムを刻み嫌味の無いセンスの良いスタイルを貫く。
 「巨人」の楽譜なんか見たことがないので何ともいえませんが、恐らくマーラーが指示したそのままの形なのだろうし、指揮者の本職は作曲家だからか、偉人に対して感情だけで暴走することもなく丁寧な音作りで、まるでこの曲のお手本のよう。
 特に「泣き」が入らないところが好ましく、全ての楽器が見えてくるように美しく洗練されている。
 だから今後誰かに「1番の推薦盤は?」と質問されたら迷うことなくブーレーズ&シカゴ響と答えるだろう。
 ここまでは普通の感想。
 私が何を感じたのか正直に表白するならば、この曲はやっぱり名曲の範疇から逸脱しているとしか思えなくて、単純な話つまらない音楽なのだ。
 たしか朝比奈隆が「マーラーは2番から始まる。」みたいなことを言葉にし生涯一回も指揮しなかったなと思い出し、もしかしたら朝比奈さんは正しいのかもしれない。
 
 ちょっと珈琲タイムにしたいので・・続きは後で・・
 
 マンデリン珈琲片手に再び書き始めました。(甘いエクレアも食べたぜ。)
 朝比奈さん理論の「マーラーは復活から始まる」考えなら、かなり凄い作曲家だと認知しないわけにはいかないけれど、だいたいのマーラー指揮者は「巨人」を録音しているだろうから、私みたいな素人考えでは到底理解できない奥深さが存在するのでしょう。
 師弟関係型・・・ワルター
 感情露出型・・・バーンスタインチョン・ミュンフン、コバケン(笑)
 ユダヤ型・・・インバル、ベルティーニバーンスタインワルターはここにも入る。
 心理学型・・・シノポリ
 客観的行動派・・・マゼールハイティンク
 主観的行動派・・・エッシェンバッハ、アッバード、メータ、テンシュテット、小澤、ラトルetc
 以上独断と偏見の類型であり責任は持たないし、更に分類するならゲイ型や金銭目的型等が考えられますが問題が生じる可能性があるので止めておきます。
 (ところでカラヤンがどうして全曲録音しなかったのだろうか?ワグナーもブルックナーもそうだけれど編成が大きい音楽は帝王が苦手とする世界かもしれない。)
 こう考えてくると、ブーレーズがどの枠組みにも属さないように感じられてきた。
 今思えばブーレーズがニューヨークフィルや、バイロイトでリングの指揮をしていた状況は時代的知見から何となく意義深いものに感じられるけれど、最近10年間くらいの録音の数々は理解することができないでいる。
 良い演奏なのか、悪い演奏なのかはここでは関係なく出発点に対しての疑問視である。
 つまり作曲家なら、特に高齢の場合は限られた時間を有効的に使うようにしようとするのが普通に思うけれど、レコーディングばかりするのだから、恐らく別次元の論理的発展があるのだろう。
 しかし、同じような立場で、つまり作曲しながら指揮活動に専念した人が他に誰がいたのかと考えたら、答えは簡単、その人はマーラーである。
 もしかしたらブーレーズマーラーに取り組む事で、自ら精神の要求と同一視しようとしているのではないだろうか。
 何も音楽だけではないけれど、新しい作品は社会の反抗と緊密に結びつき、それが感動的だろうが汚された至高だろうが全く関係なく、問題なのは現実世界の境界の否定である。
 将来ブーレーズの作品がどうなるのか誰にも解らないけれど、マーラーは消滅することのない作品であり、取り組むことが既に目的になっている。
 つまり、当初の考えは否定され1番は名曲だと認識しなければならなくなる。