なぎさホテル

 伊集院静氏「なぎさホテル」7月6日発行ですから初版本を購入しました。
 著者初の電子書籍でも読めるようですが、ハードを持っていないので私のは普通の本である。
 トイレに行くのも忘れながら読みきってしまい、久しぶりに頁が少なくなる勿体無さが感じられた。
 これまでも幾つかの随筆で断片が紹介されていたり実在の人物がモデルになった小説があることから、だいたいの内容は予め学習していた感覚でしたが、今回はじっくりと逗子の歴史的なホテルの内部に客人の一人として入ったような不思議な気持ちになれました。
 大正時代から平成元年まで続いた湘南初の西欧風ホテルで、木造2階建て客室も少なくトイレもお風呂も共同。
 支配人をはじめスタッフの人柄が若き文士を優しく包み込む、心が温かくなるエピソードの数々、このホテルなくしてはその後の伊集院文学は生まれなかったのだろうと思った。
 こんなホテルが身近な場所にあったんだなと、私の志と視野がもう少し幅を持っていれば訪ねてみたかったな、手に届く可能性もあったのにと、大切な宝物を失ったような遣る瀬無い悲しみを覚えた。
 それでも自分の年齢から差し引き計算しても利用するだけの勇気が持てたかどうかわからないし、小僧の小生に果たして何が理解できたのか考えるだけ野暮。
 今年は逗子の花火大会が延期になるそうで、このホテルだったなら最高のロケーションになっていたはずで夢のような話である。
 中止の理由は数万の人口の町が花火の日には60万人を超えるそうで、確かに海岸は動きが取れないほどの混雑だから、津波なんかがきたら命の保障は無いし行政が不安に思うのも仕方がない。
 逗子前後の町である葉山と鎌倉の花火大会も今年は中止、静かな夏になりそうである。
 なぎさホテルには天皇陛下つまり当時の皇太子ご夫妻が葉山御用邸を利用される際に毎年のようにランチのためにご来館されたようで、あまり関心の無い伊集院先生は自室で読書か創作活動あるいはお酒だったみたいで、それでも私はレストランやホテルの裏が好きなので奇妙な緊張感を感じながら読んだ。
 そういえば御用邸前の蕎麦屋さんで現在の皇太子が出前を頼まれた時に、「蕎麦の味が落ちるから」と断り、仕方がなく皇太子が店まで食べに来たというエピソードを思い出した。
 今ホテルの跡地はファミレスで食事をしている人たちも、ここに歴史的なホテルがあったと意識するはずもなく、働いている人たちだって知らないかもしれない。
 世の中は電子書籍のように簡素化され、常に利便性が追求される。
 それでも鎌倉を歩くとさまざまな職人が現役で創作に没頭しているのが見えてくる。
 そいつは、なにも鎌倉彫みたいな工芸品に限らず床屋さんだったりお寿司屋さんだったり、創作ではないけれど漁師さんにしても同じことで皆が職人であり、詩人の田村隆一氏が言っていたように「せめて三代続けば・・」街に潤いが生まれてくる。
 でも観光地には、いんちき臭い店だって多いのですから間違いの無いようにしなければ。
 そういえば、本を買った大船の古い書店は今月で閉店だそうで、今後は鎌倉駅近くの本店のみの営業になるそうです。
 また古い店がコンビニか何かに変わるのでしょうか。
 何度も読み返すだろうな、面白い本でした。