「マーラー」吉田秀和著 河出文庫

 書庫に「マーラー克服企画」なんて作りながら全く更新していない現状をどうにか壊したい気分だった。
 先日厚木の本屋さんで「マーラー吉田秀和著(河出文庫)が目にとまり、その場でパラパラと立ち読みしたところ、読んだことがあるような部分もあるけれど全部は読んでいないような感じもするし、もしかしたら読んでいるのに中身を忘れてしまったかもしれないような、何ともいえない中途半端なストレスを覚えた。
 それでお終いの箇所を眺めたら、これまで吉田先生がマーラーについてあれこれ書いてこられた文章の寄せ集めであることが判明。
 しかも1948年頃から2009年9月と半世紀以上の枠だったのですから、無理やり文庫本に詰め込んだ感じがしなくもない。
 裏表紙に「これはマーラーがまだ新しかったころについての一音楽愛好家・執筆業者のささやかな体験の記録でしかない。それにもかかわらず、この本がマーラーが投げた一つの石がめぐりめぐって遥か東方の島国にまで及ぼした波紋の一つとして、不完全ながらもマーラー入門のような役に立ったとしたら、どんなにうれしいかわからない。 吉田秀和
 私は極めて単純な人間でたとえ裏表紙数行の文章だったとしても心動かされ、しかも「貴方のための本ですよ。」と先生に言われているような気持ちになり、別の言い方するなら河出の編集者の策略だろうが兎に角買った。
 昔からマーラーが苦手で今更無理して克服する必要もないのだろうけれど、世界に限らず日本人指揮者だってマーラーを必要とし聴衆も其処に意義深い人生を見出すのだから必ず理由があるはずで、演奏会が多くてチケットが売れるのですからそういうことなのでしょう。
 フルトヴェングラークナッパーツブッシュチェリビダッケクライバー等あまりマーラーを必要としていないマエストロも直に思い出すけれど皆あの世ですし、それに時代が異なるのですから材料にならない。
 例えば突飛な考えだけれどチェリビダッケが指揮していたとしたら、シューベルト「グレイト」の天国的長さに対抗するように、楽譜を見ていても何処まで進んだのか解らなくなってしまうくらい「地獄的な長さ」だったろうなと勝手気ままに想像する。
 しかし私は本当にマーラーが苦手なのだろうか。
 表現が難しいのですがコンサート会場に出かけ実演に接するなら夢中になり鑑賞することができるはずだし、事実秋のラトル&ベルリンフィルコンサートマスター樫本大進のお披露目でもあり特別な思い。
 そして今年は冷静でいられない事件事故ばかり企業の倒産も多く誰だって生きることに疲れ、社会や国家に対しての不安だけではない。少し先の未来さえ見えないのだから9番が演奏されることが大変意義深く思われる。
 実演といえばバーンスタインの9番は稀有な体験だったと今でも断言できるし、8番を日本のオケで聴いた時はサントリーホールのP席は勿論RAとLA席まで合唱団が並んでいて爆音。面白かった。
 しかし、昨年インバルの「復活」は途中で気持ち悪くなってしまい曲の終わりと同時にトイレに駆け込み・・・ああ今日は真剣に書こうと思っていたのに最初の線路に戻れそうにないのでこのまま脱力路線で文章を進めます。
 何処で脳のポイントが切り替わったのかな?もうどうでもいい。
 脱力で思い出しましたが吐きそうになった演奏会は他にもあって、エッシェンバッハ指揮のブラームスとポゴレリッチのベートーヴェンソナタだったから、それこそ心療内科でカウンセリングを受けたら謎が解明されるかもしれないが何もマーラーに限った事では無いのかもしれない。
 関係ないけれど車の運転しながらスティーブ・ライヒを大きな音で聴いていて、気がついたら同乗者全員が酔っていたことがあった。
 ただブラームスベートーヴェンマーラーの違いは決定的なのは、自宅のオーディオで聴く気持ちにならないところでしょうか。
 何故聴きたくないのか?最早自問自答。
 漸く本題に入れそうである。
 私は都会を嫌い環境の良い静かな場所を求めて此処にきた。
 利己主義的で冷淡な社会から抜け出したくなったのだと感じている。
 つまり少なからず自室にいる時くらいは心穏やかに過ごし対立や不調和を忘れ、何よりも流行に左右されるような偽りの自己顕示の姿勢を傍観されることに嫌気がさしているみたい。
 32頁に作曲家を見事に表現した箇所があった。
 「マーラーの音楽の放射する魅力のうちの最も強烈なもの。聴く者を捉えて、全身的な陶酔の魔力の下におき、麻薬のように一種の中毒状態にまでひきずりこむ力。そうして一度その甘美な恍惚にとらえられた経験のある者にとっては、およそ中毒がそうであるように、もう、これでよいといって満足することも、飽きるということもなくなり、くり返し、それを求めて立ち帰ってくるように誘うことをやめない力。・・旋律の形成にあたっての信じられないような能力。」
 旋律形成の話やシェーンベルクの言葉も極めて重要で引用したいのですが、難しい話ですし、なにより書き終わらないから今回はパス。
 つまり上記のような美しい旋律に感応できない人こそ悲しい存在だけれど、もしその先にも道があったとしたらどうするか。
 生きる意志があれば、人は新たな快楽を求めて歩み出すのではなかろうか。
 しかも道は二つに分かれていると仮定したい。
 一つは更に強い麻薬を求める道。
 もう一つは切り離し知らないまま生きていきたいと思う所謂反動である。
 私は無意識のうちに後者を選んでいたようですが、マーラーの本質は前者に所属するように感じられる。
 100年前の事は知らないけれど、現代社会はマーラーを求めている。