ハンス・ロットについて

 前回の記事「マーラー吉田秀和著」に頂戴したコメントに対し作曲家ハンス・ロットについて触れました。 
 少しロットについて調べたので抜粋ですが紹介したいと思います。
 ハンス・ロット1858年8月1日ウィーン15区の出身。
 父カール・マティアスは喜劇役者。母マリーアは女優でオペレッタ歌手。2人は正式な夫婦ではなく父は別の女性と結婚していた。2年後弟カールが誕生、弟の父親はヴィルヘルム・フランツ・カール大公。些かややこしいがロットは不倫関係の間に生まれた。当時父51歳、母18歳。1872年母マリーア32歳で死去。1875年父カール舞台上の事故が原因で死去。その時ハンス18歳、弟16歳。収入源が無くなり住居や家具を売る。(かなり悲劇的)
 74年ウィーン音楽院入学。オルガンをブルックナーに師事。他の教授陣にピアノ、対位法、和声法、作曲を学ぶ。技量が認められまた経済的理由から学費が免除。(ラッキー)
 オルガニストの所謂アルバイト。学院でマーラー、ヴォルフ等と友情を育む。一時期マーラーと同居。75年音楽院のワグナー協会入会。そのころから古風な学院の授業に彼らは退屈。ヴォルフ暴言を吐き退学処分。ハンスとマ-ラーは我慢する。(美しき友情)
 76年ワグナー指揮「ローエングリン」を鑑賞。同年第一回バイロイト音楽祭に出かけ、帰りにニュルンベルクに立ち寄る。(完全なワグネリアンに変貌する。)
 78年作曲コンクールのために交響曲第一番第一楽章を提出。ブルックナー以外の審査員大半に馬鹿にされる。ブルックナー「皆さん笑うのをやめなさい。あなたたちは今後この人物が作り出す音楽を聴くことになるのだから。」しかし恩師の言葉虚しく、学位もメダルも与えられず学院を去る。(悲劇)
 オルガンの職は修道僧の虐めで辞す。(気の毒)
 79年夏、恋をする。作曲活動順調。(ハッピー)
 同年冬、めまい、興奮状態。(不安)
 80年、ミュールハウゼンから合唱協会学長赴任の依頼。しかしウィーンに残りベートーヴェン賞金賞の800フローリアンが貰えれば生活できると考える。第一交響曲と田園前奏曲を応募。それがきっかけで審査員のブラームスと知り合う。9月17日ブラームス邸を訪問。巨匠曰く「平凡でナンセンスな音楽。美しい部分は君の手によるものではないんだろう。」(拒絶された)
 その後自作をウィーンフィルに演奏させたいと考えハンス・リヒターに頼み込む。リヒター3回もアポをほったらかす。演奏の夢消える。(涙)
 この頃から言動がおかしくなる。
 もはやミュールハウゼンに行くしか未来は無いと考え10月21日列車に乗る。車中強い幻聴幻覚が彼を襲う。停車したリンツで乗り合わせた男性が煙草に火をつけようとしたとき「ブラームスがダイナマイトで列車を爆発させる」妄想を懐き、ハンスは男にピストルを向け取り押さえられる。ウィーンに引き戻され23日精神病院に収容される。その後度重なる自殺未遂。81年2月ニーダーエスライヒ州の精神病院に移り。最早回復不可能と診断される。弟カールが見舞いに訪れているが、同年秋に弟カール急死。82年再び自殺未遂。同年12月から身体的に衰弱。84年6月25日結核に感染し死亡。享年25歳。(悲惨な人生である)
 (上記の事実を多くの人に伝えたく、日本ハンス・ロット協会の記事を一部参考にさせていただきました。)
 
 現在演奏可能な作品は20数曲存在しているようです。
 残念なのは交響曲第二番と一部の室内楽が死後に処分されたそうです。
 マーラーは第一交響曲の楽譜を頻繁に借り研究したそうで、自身の第一番「巨人」でロットを引用しているとある。
 しかしじっくり聴くなら「巨人」だけではなく様々な旋律が模倣されたものであることに気がつかされる。
 マーラーはウィーン国立オペラ在任中にロットを一度も取り上げず、その後世間は彼を忘れた。
 今では幾つかのCDも入手可能ですが、第一交響曲世界初演されたのは1989年。日本初演は2004年ですからつい最近の話です。
 今回は克服企画から外れた内容でしたが、大切な事実と認識しております。
 
 追加情報として、音楽院時代共に学んだフーゴー・ヴォルフは優れた歌曲が多く現在でも愛され続けているが、ある時自作オペラの上演をマーラーに依頼し断られると、ヴォルフは錯乱し街に飛び出し「私がマーラーだ」と通行人に叫び続けた。これはヴォルフの最初の発狂だそうで、その後精神病院に強制的に入所させられ、退院後も自殺未遂。そして施設に戻り、波乱と狂気に満ちた人生を送り42歳で他界した。ただヴォルフの精神障害は梅毒が原因で、マーラーの影響は関係なさそうです。ただワグナーを賛美しブラームスを見下したことは事実とのこと。