サイトウキネン松本 その③「中国の不思議な役人」

 27日のオペラ最終日マエストロ小澤が登場されたようで、個人的には心配していましたが、やはり音楽家は一度でも多く舞台に立つ宿命を担っているのだなと感慨深い。
 結果として23日と25日の平日公演に代役ヴァレーだったのですから、土日の忙しい私には今回縁が無かったと思うしかありません。
 それでもあまり上演されないバルトークの2作品を鑑賞できたことは大きな意義がありまして、多少の知識はあっても真剣に聴かず後回しになっていた重い扉が開いたような感覚。
 前半の「中国の不思議な役人」は沼尻竜典氏の指揮、金森穣氏の振り付け演出で自ら舞踏部門芸術監督を務めている新潟のプロダンスカンパニー「Noism」のメンバーが演じた。
 この演奏が良いのか悪いのか論じる前に、バルトークは本当に凄い音楽を作ったのだなとあまりの偉大さにびっくりしたのが正直な感想であります。
 自宅ではブーレーズのレコードを時々聴いていて、それなりに音の連なりを記憶できているから特にブラスのセクションには高度な技術が要求されると知っていたし、いつも冷ややかに修正録り直しのできるレコーディング用の音楽と勝手に憶えていた。
 しかしサイトウキネンはその世界を普通に演奏してしまうのですから驚愕というかとんでもない団体で、技術的な進化を考える時もしかしたら世界一上手いオーケストラなのかなと思ってしまうくらい。
 アメリカでもなければ欧州の音でもない、こいつがサイトウキネンなのだな。
 沼尻さんの音楽はエネルギーに溢れ熱演と表現して良いのでしょうし、事実終演後大きな歓呼に包まれていましたが、聴き手としては作品の中に溺れきれない客観的な気持ちに苛まれるのはどうしてなのかな。
 低俗な形容しかできなくて嫌になりますが、CDを聴いていて途中でトイレに行きたくなり一時停止ボタンを押し用足ししてからまた続きを聴いているような感覚って言ったら怒られてしまいそうですが、どこかブルーレットのようにクール。
 この感覚はオーケストラが上手すぎるからかもと妙な疑いまで持ってしまい、しかし小澤さんの時は限りなくヒューマンな世界に導かれるから勘違いかもしれない。
 それに強ち沼尻さんの責任にしてしまうのも具合が悪くて、どうしても金森さんの演出に起因しているように感じられるのはバレエである以上我々は聴きながらもステージを観てしまうからで、こいつをタモリ倶楽部空耳アワー的現象とでも定義しようかな、どうやら油断していると聴覚より視覚が勝ってしまい自ずと聴く作業が疎かになってしまうのです。
 いま思い返すとやっぱり沼尻さんは明晰で感情の起伏の豊かな素晴らしいバルトークだったと思う。
 つまり問題は演出だ。
 (関係ないけれど似たような気持ちになったことは以前にもあって、例えば日本語訳の外国の曲を耳にする時に旋律と言葉の関係が特にしっくりこなくて気持ちが悪くなったり、やっぱり言葉と旋律は一体にならなければ音楽にならないのだなと感じるのです。
 石川啄木の短歌に越谷達之助が作曲した「初恋」などは奇跡的な出会いと感じていて「砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日」のあれである。
 「Singin in the rein」とか「imagine」なんかも具合が良いです。)
 ダンスはバレエというよりはコンテンポラリーの要素が強くて、主役のミミがごろつき一家の養子という読み替えもあったそうで、観ていながら「あったそうで」というのは帰りの「あずさ」の中でプログラムを読んで初めて知ったからで、ただ舞台を眺めているだけでは何だか理解できない。
 理解できないのは未熟なだけかもしれないけれど、たぶん解らないのは自分だけではないから演出家の責任だと言っていいと思うし、それ以前にミミをミミと気がつかなくて暫くは男だと思って見ていたのですから己の鈍さに呆れるばかりで、でも解らないのは衣装に問題があったからでしょう。
 金森氏曰く、「ミミが養子になったことで小さなコミュニティー家族の中の生贄、役人が大きなコミュニティー国家で社会に身を捧げる生贄人形で、死なない役人の不条理を際立たせる。(中略)ミクロとマクロの集団が生み出す生贄同士の、エロスとタナトスとの物語なのです。」
 インテリ風のかっこいい表現ですが、4階席から観るとちまちました振り付け演出で影みたいに動き回る黒子が邪魔で「もっと本気になれ!本気で殺せ!立てなくなるまで殺せ!」と脳の危険信号が点滅、要するにストレスが溜まりました。
 でも凄い演奏でした。
 休憩時間後ゼネラル・マネージャーが小澤さんキャンセルのお詫びのご挨拶。
 かなり緊張しながらたどたどしい。
 書き出すと草臥れます。
 しかし書き終わらなければ夏が終わらない気持ち。
 オペラの話は次回にします。