ハンス・ロット交響曲第1番 名曲です。

 「マーラー克服企画」を取り組み始めた時の発想なんて漠然としたもので、未完を含めた11の交響曲と名の知れた歌曲を聴けたらそれで良いと思っていましたが、どうやらそういう訳にもいかない相当に厄介な仕事みたいで、例えば複雑に絡まった糸を解くいらいらした作業に似ていて、何故ならばそれがマーラーだからである。
 当初の目標では作曲家アニバーサリーの2011年だからと11月22日ラトル&ベルリンフィルの9番を聴くことで完結させるつもりでしたが、このままでは間に合わないかもしれない。
 この1ヶ月間はサイトウキネンの件もあったから限りなくバルトークモードだった。(しかしバルトークがあんなに居心地の良い音楽だとは全く気がつかなかった)
 少し前までは、どうして自分がチケット買った日に小澤がキャンセルなのか腹立たしく、病気したマエストロの代役がオーラの無いヴァレーだった現実、左手に藁人形右手に五寸釘を持ち近所の寺で払い戻しもしない運営サイドを呪ってやろうと思いましたが、愚かな私は忘却する脳の仕組みを生まれながら持っているみたいで、さっきもニュースで新たに基準値以上の放射線セシウムを含んだ牛が2頭いたとアナウンサーが話していたのに何も感じなくなっていて、つまり完全に精神が麻痺してしまうのも、何故ならばそれが人間だからである。
 思えば松本の帰りに「あずさ」を降りた私は新宿のタワーレコードに寄り「ハンス・ロット交響曲第1番」のCDを購入し、なかなか鑑賞する気分にならないままになっていましたが漸く聴くことができました。
 演奏はセヴァスティアン・ヴァィグレ指揮ミュンヘン放送管弦楽団で、とりあえずこれに決めたのは国内盤で日本語による解説が付いていることと、交響曲以外にも「管弦楽のための前奏曲 ホ長調」「ジュリアス・シーザーへの前奏曲」が収録されている充実度だからで、そのうち他の指揮者でも買うだろうけれど、長年ドイツを中心に特にオペラを経験してきたヴァィグレのようなカペルマイスターなら入門編としても信頼できるし、それから安かった。1,000円だったかな。
 
 ハンス・ロット 幻聴性の被害妄想による精神障害で長期に亘り精神病院に監禁され孤独な死を迎えた人。
 詳しい経歴は小生の書庫「マーラー克服企画」8月14日の記事をご覧ください。
 
 youtubeで聴いていた時は「第3楽章がマーラーに似ている」と感じた程度でしたが、オーディオでじっくり対峙すると、実はその後の誰かが真似していた事なんかどうでもいい話で、いきなり等身大の作曲家ハンス・ロットが出現したような気持ちになれたのですから、僅か21歳の作品にて最後の交響曲、これは少しばかり恐ろしい。
 当時の保守的な教授陣から見れば相当な異端だったのかもしれないけれど、けっして革命的な音楽では無く寧ろ牧歌的な世界に導かれるのは優しく傷つきやすい性格の表れか。
 ロットは恐らく社会動向に敏感で、常に身近な先人から大きな影響を受ける。
 つまりモーツァルトベートーヴェンがいくら偉人だったとしても直接会話のできない過去の人なのだから、同じウィーンだったにしても身近に感じる道理は無い。
 実際にブルックナーが師匠であり、最も純粋といえる10代後半にワグナー指揮「ローエングリン」を観て、夏には聖地バイロイト詣だから、幸か不幸か影響を受けない方がどうかしている。
 形容が難しいのですが、例えば仲間由紀恵と2人でタイムマシンに乗り、フルトヴェングラー指揮のバイロイト第九を鑑賞するようなもので、そのくらい考えられない人間関係なのだ。
 解説書に色々書かれているけれど、以下個人的に気がついたことを中心に記してみたい。
 この曲にはブルックナーとワグナーとブラームスに似ている箇所が沢山出てくるのですが、特に前半はワグナーの影響が大きいように感じられる。
 しかも毒々しいワグナーの旋律ではなく、透明感のある美しい部分に惹かれていたかに思えるのは、第1楽章の頭が「ローエングリン」みたいで最初の頂点が2分17秒でやってくるが、1幕のローエングリンとテルラムントの戦いの直前の盛り上がりのよう。
 しかし主題音型はブルックナーの3番1楽章がモデルといえなくもない。
 4分44秒では木管楽器による「マイスタージンガー」風のリズムと音の連なり、5分37秒でトランペットによる「パルジファルドレスデンアーメンを想起。
 しかし年表を見ると第1楽章完成提出は1878年20歳の時で、ワグナーはその前年1877年から「パルジファル」の作曲に着手しているが発表前だから時間のずれが生じてしまう。
 因みにロットがバイロイト音楽祭に出かけたのは1876年18歳の時。(なんと「ニーベルングの指輪」初演だ。)
 ロットはドレスデンアーメンとして試みたのか?それは考えにくいし、もしもあの箇所が「パルジファル」に関係しているとしたら、ロットとワグナーは会っているかもしれないというのは突飛だろうか。
 もしそうだとしたら凄い話である。
 まさか、ワグナーがロットを真似る筈はない。
 「パルジファル」全曲完成は1882年だけれど、1880年11月に前奏曲だけミュンヘンルートヴィヒ2世のために演奏されている。
 その1ヶ月前の1880年10月にロットは発狂して精神病院に入ってしまった。
 それから楽章のお仕舞いは「タンホイザー」か或いはローエングリンか?聴いていると何だか混乱してしまう。
 それでも下地には常にブルックナー風の支えがあり、手引きを引用するなら2楽章7分17秒弦の扱い、3楽章8分14秒、4楽章の主題に基づくフーガ12分29秒、対位的書法の偏愛にロットがオルガニストとしてバッハに通じていたからかもとあるが、思えば師匠もオルガニストだったと思い出した。
 終楽章はブラームス的な箇所を誰もが指摘するでしょうが、引用と言うにはあまりに悲しい気持ちになってしまうのはどうしてか。
 特に1分27秒からの金管、(7分17秒からの美しさ!この世界はロットそのもの、マーラーではない。)そして問題の8分24秒からの主題だ。
 ロットは本当にワグネリアンだったのだろうか?と小さな疑問、別にブラームスを否定なんかしていないだろうし、ワグナーやリストみたいなインテリではない。
 「美しい箇所は君の作曲ではないね。」
 悪意はないだろうし、ブラームスに悲しきロットの性格を享受できるだけのキャパがあれば、もしリヒターが初演をしていたら少しばかり歴史は違っていたかもしれない。
 例えば巨匠が「私はベートーヴェンに憧れていたんだよ。」と言葉にしていたら、考えるだけ野暮ですが。
 
 さて、マーラーについては避けられないですが、どうしたものか悩んでしまう。
 ロットは何でも吸収してしまう乾いたスポンジで、これは若さに由来する貪欲な精神に関係するように思われ、ワグナーやブルックナーが登場しても違和感が無いと断言できそう。
 ロットが亡くなって何年もしてから「巨人」が完成しているのだから、随分と強い印象を与えていたのだな。
 誰かに影響を受けることを否定しないけれど、ウィーン国立歌劇場音楽監督にまで登りつめた指揮者がロットを取り上げずに寧ろ封印したのですから、マーラーも相当なもんである。
 マーラーによるロットの引用は乾いたスポンジ理論と種類が異なるように感じられ、どう考えても真似しているとしか思えないのは、第3楽章の頭なんか同じ音楽にしか聞こえてこない。
 マーラーは指揮者だったから聴き手の感情を誰よりも理解していて、時に泣かせたり、逆に気持ちを高めたりと特別な才能があったのでしょう。
 ところで終楽章の16分30秒辺りからブルックナー風エンジンが唸り出し、16分43秒でマーラー5番終楽章に変貌するのですが、何が先で何が後なのかもうどうでもいい・・感動的である。
 ロットの音楽は装飾過剰とか誇大妄想的だとか言われることもあるそうですが、そんなことはないと思う。
 マーラーのような粘着質とは幾分異なる爽やかな世界。
 そういえばCDで交響曲の後に入っている「管弦楽のための前奏曲」はタンホイザーブルックナーになったみたいな曲。