バイエルンオペラ「ローエングリン」鑑賞
9月29日16時開演、NHKホール。
バイエルン国立歌劇場公演・ワグナー歌劇「ローエングリン」
ハインリッヒ王 クリスティン・ジークムントソン
エルザ・フォン・ブラバント エミリー・マギー
テルラムント伯爵 エフゲニー・ニキーチン
オルトルート ワルトラウト・マイヤー
伝令 マーティン・ガンドナー
バイエルン国立歌劇場合唱団
合唱指揮 ゼーレン・エックホフ
指揮 ケント・ナガノ
演出 リチャード・ジョーンズ 他
楽しみにしていた舞台で漸く本場ドイツのワグナー、普段より少し早めにホールに出かけました。
タイトルロールがカウフマンからボータに変更になり、それでも多少の心配があったのは最初だけで、ローエングリンはほぼ完璧な歌唱で上演成功に導いてくれた。
今回の公演で彼は相当高い評価を獲得したでしょうし、正直私はここまで歌えるとは思っていなかったから驚いてしまった。
カウフマンは所謂ヘルデンテノールらしいバリトンのような太い声質で誰をも圧倒させる力を持っているが、ボータは言葉のニュアンスを美しく明瞭に形成できる繊細さを兼ね備えていて、時にドイツ詩朗読のように聴き手の心に入り込み、内証と表現したら大袈裟かもしれないけれど、言語を超えたローエングリンの苦悩が利他の動きをも包み込む不思議な影響力がある。
しかもその声は大きく響き、カウフマンの代役である事実を私は完全に忘れてしまった。
かなり太っている人なので白鳥の騎士には見えないのですが、ジョーンズの演出が伝説世界のそれでは無いので見ていてそう違和感は無かった。
バイロイトのジークムント役の録音と今回の公演を思うと、今後ワグナーを何でも歌えそうな気がして、見た目の問題もあるからトリスタンやジークフリートは止めた方が良いような感じだけれど、パルジファルなら聴いてみたい気持ちになりました。(ワルターはティーレマン指揮のDVDで聴くことができる。)
それから印象の強い歌手はなんといってもマイヤーの存在が大きく、誰もがそう感じたのでしょうかカーテンコールでは一際大きな喝采を受けていた。相変わらずマイヤーは凄い。
ジョーンズの演出は最初から緞帳が上がっている状態で、つまり前奏曲の前から既に仕掛けがある。
客席に背を向けたエルザが建築設計用紙と対峙していて音楽の開始と同時に図面の作成を始める。
ここでの面白さはマエストロの登場に聴衆が拍手を送る定番のオペラは存在せずに、会場が徐々に暗転しあの美しき弦が唐突に物語の序奏を司る。
つまり何時マエストロがスタンバイをしていたのか聴衆は誰も気がつかないのは、第2幕でも同じことで休憩時間終了の15分程度前から無言の劇が始まっていて何時の間にか指揮棒が振り下ろされる仕組み。
第3幕では一般的な指揮者登場を拍手で迎え前奏曲だった。
私は以前似たようなオペラの開始を経験していて、ボン歌劇場で「オルフェオとエブリディーチェ」だったのですが、確かシュナイダー指揮でデッカーの演出だったと憶えている。
肝心の舞台構成は設計用紙に従いステージ上に実際の家が建築される光景が主軸になっている。
テルラムントとオルトルートは衣装から判断すると階級がワンランク上なのだろうか、日雇い労働者に仕事を依頼する個人経営者のように見え、伝令は監視係で、ハインリッヒ王は全てを統括するオーナー的立場のように見える。
告発されたエルザの元にローエングリンはリアルな白鳥の人形を持って登場するのですが、ペーター・ホフマンみたいに光の中かっこよく現れるのではなく、ただボータが横から歩いてやってくるのだから笑っているお客さんもいる。これは可笑しくても仕方がないと思うのは、やたらマヌケな感じに見える。
その後テルラムントに勝利したローエングリンは素性を尋ねないことを条件に、共にレンガを積み重ねる作業を始めるのだから、「なんだこれは?」である。
しかしこいつは面白い演出だと私は思った。
「建築とは?」休憩時間に考えた。
宗教でも国家でも思想を持たない庶民でさえ建造物は必要であり、浮浪者だってガード下とかに段ボールで家らしきものを作るのだから、形態はどうあれ誰もが理想の空間を求めてやまないことが人間の性なのかもしれないと単純に気がつかされた。
上記に記した第2幕の音楽開始前の作業は労働者がひたすらレンガを重ね、ローエングリンは母屋の横にあるプレハブみたいな建築事務所で設計図を眺めながら何か思考している様子であるが、途中から草臥れてしまったのかベンチに横になり寝てしまう。
「私はどうしてここにきてしまったのかな。」うんざりしているようにも見える。
その光景はボータが太っているから、流氷の上のアザラシかトドみたいで絶対にローエングリンには見えない。
兎に角、劇の進行に合わせて最終的にはエルザとローエングリンの新居は目出度く完成する。
ルードヴィッヒやヒトラーが夢見たであろうローエングリンでは救世主としての存在が際立ち、「信じることが出来るのか或いは信じられないのか、その問いを発した時に既に信仰は存在しない」というような高貴な印象が作品価値を高めるのでしょうが、この舞台を観て思ったことを、あえて私は質問するなら「素性だけではなく名前さえ知らない人と一緒に生活できますか?」である。
当たり前だが、答えは「NО」である。
そんな映画を2つ知っていて、1つはシェロー監督の「インティマシー」で毎週水曜日に知らない女性が訪ねてきてたいした会話もしないで肉体関係だけがあって、次に会うのは今度の水曜日という展開。これは最終的には破綻するのだけれど、男が女性の素性を知りたくなり奇妙な行動に出てしまう。
もう1つは「時代屋の女房」で素性を知らない女性がいきなり訪ねてきて骨董屋の主人と生活を始め、ある日唐突に姿を消す。だいたい夏目雅子がいきなり訪ねてくるはずもなく、誰の作品か忘れましたが完全にあの映画は夏目雅子に憧れた男のエゴである。
第3幕2人の関係は修復不可能になりローエングリンは新居に火を放つ。
ここでは本物の火が使われるから完全な放火であるが、ウォータンが火の神ローゲを呼び出す「ワルキューレ」最後の場面を思い出した。(つまりNHKホールが許可した現実が、いいんじゃない。)
そして豪快な間奏曲でケント・ナガノが暴れるように指揮をして場面転換になるのですが、労働者階級と同じ青いTシャツ姿にローエングリンは着替えて再登場、(正確にはローエングリンだけボタンの付いたシャツで、あれは急な代役でデブのあまりサイズが合うTシャツが調達できなかったのだろう。ユニクロにもあのサイズは売っていないと思う。)その姿になった以上最早救世主としての効力は消えうせ、エルザとの関係は消滅する。
つまりその衣装で「遥かな国」が歌われ、白鳥を持って一度そでに姿を消したローエングリンはゴットフリートを抱えながら登場、「新しき指導者である。」と言葉にし聖なる国?に歩いて帰還する。
オルトルートは最後のフレーズを高らかに歌い上げ、ハインリッヒの椅子に腰掛けるのだが、悪の中軸であるべきオルトルートは魔法がどうこうではなく物語の中で生き抜く術を獲得していたと考える。
青いTシャツの民衆は全員が長椅子に座りピストルを口に突っ込み自殺未遂なのか死を選ぶのか、そこで幕が下りる。主人公に限らず世間は同じような境遇に苛まれているとしたら可笑しな言動にも説明がつくような気がする。
演奏については概ね好ましかったのですが、来日しない人員の代役?エキストラの関係なのか、1幕の前奏曲で弦のバランスがおかしく、精妙なアンサンブルとはいえないと気がついた。
これは以前のバイエルンでは起こりえない失態だと感じられ、合唱にしても同じようなストレスを覚えた。
細かな話ですが3幕でローエングリンがエルザに指輪を贈るシーンあたりで、ボータが歌い出しを1フレーズ間違えたが流石百戦錬磨上手に誤魔化した。
マイヤーは3幕の最後のシーンで音程が正確ではなく、若干フラットしていたがそのまま貫き通したけれど、バランスは悪くなく本人が一番気がついているはずで正しい判断だったと思った。若い時代の正確な表現が不安定な方向に進まなければよいのですが。
伝令のガンドナーは素晴らしい。テルラムントのニキーチンは雑な印象があって、シュトルックマンだったら良かったのにと感じてしまった。
エルザのマギーは期待していなかったけれど、もう少し繊細な歌唱を要求したくなってしまい、これ以上も求めるのも気の毒思われ、現在の最大限の力を出してくれたと信じたい。
ハインリッヒのジークムントソンは期待はずれで、もう少し堂々とした国王を求めたくなりました。
マイヤーに対しても同じようなシーンがあり、何故あそこまでオケをドライブする必要があったのか疑問である。
意識の高揚は理解できるがテンポが速すぎたり遅くなったり、個人的にはあまり好きな指揮じゃない。
こういう演奏はオペラ以外でやってもらいたいと感じた。
批判じみた文章も書きましたが、バイエルンオペラの演奏は素晴らしく感動的だった。
そういえば第3幕で一度は完成した家の前に民衆により花が植えられドイツ語の文字が浮かび上がるが、翻訳した内容を紹介するなら「私の迷いが安らぎを見いだすところ-私はこの家をヴァーンフリートと名づけよう。」
これは聖地バイロイトのヴァーンフリート館の壁画に刻まれたワグナーの有名な言葉である。
己のユートピアとは?自問自答。
@皇太子様が鑑賞されていたそうです。
後藤美代子アナウンサーをお見かけしました。
女性指揮者の西本さんを喫煙所で見かけました。
注目の公演だったということかな。