名演に涙、サイモン・ラトル&ベルリンフィル演奏会「マーラー9番」

 11月22日はマーラーの一日としたい。
 今、私はとても疲れている。
 これほどまでに集中し音楽に没入できた演奏会は初めてかもしれない。
 昨夜19時開演サントリーホールサイモン・ラトル指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団演奏会。
 マーラー交響曲第9番、2階RA3列9番にて鑑賞。
 購入当初は「なんでサイドの席がB席で31,000円もするんだ!」と主催フ○テレビを呪ってやろうと思っていましたが、こうして実演に接するならば企業の思惑と演奏家の意識は別の次元に存在していると痛感する。
 演奏について何をどうだったと論じる気力も無いのですが、誰か専門家が批評する前に書きたいと思うのはいつものことだけれど、ベルリンフィルはやはり世界一で我々にとってかけがいのない特別な音楽をやってのける団体だった。
 これまで何度マーラーの第9を聴いてきたか数えていないけれど、最初に心動かされたのはバーンスタイン指揮のイスラエルフィルだったと覚えている。
 まだ10代だった私は少ないアルバイト代をかき集めどうにかチケットを調達しNHKホール3階の一番後ろの席に座った。
 今の時代バーンスタインみたいな音楽を作り上げる人は幾分古い表現者だといえなくもないけれど、独特の嘆き節みたいなマーラーを確かに聴いたし、細かくは忘却したけれど聴衆の誰もが結束するような、連帯と言葉にしてもいいような稀有な体験だった。
 あの時は社会的な動向もリンクしていて、イスラエルパレスチナ難民を虐殺し大問題に発展、渋谷駅からホールまで演奏会を阻止しようとしている右翼団体ばかりで、それらを掻き分けるように公園坂を歩いた記憶があるし、ホール入口では爆弾の危険性からか花束等は全て回収されている光景も見た。
 そんなことから指揮者とオケと作曲家がユダヤの血で結びついていることを意識しないではいられなかったし、団長やマエストロはきっとフリーメイソンで団員の数名はモサドに違いないと勝手に思い込み注意しながら聴いていた。(なにを注意する必要があったのか馬鹿みたいですが、私の10代の時なんてその程度だった。)
 上記は前書きでもなんでもなくて、つまり昨夜の演奏で大きく気がついた点が2つあることに繋がる。
 ①ユダヤの音楽であることを完全に忘れていたこと。
 ②不思議とマエストロ・ラトルを聴いた印象が薄いこと。
 誤解されたくないので説明が必要に思いますが、①については今年がマーラーのアニバーサリーで個人的に苦手な作曲家を克服するチャンスと考え、ちょっとした課題にしていたのだけれど自宅で聴くには相当に厄介な音楽で、例えば朝起きて仕事の前にあんな粘着質の大袈裟なユダヤの音楽は気軽に聴けないし、夜でも何か気がかりな用事が頭の片隅にあった場合に没入できない要素が多すぎるように感じること。
 人間としての営みというか、普通に生活しているときにマーラーに時間を割くゆとりなんか私には無い。
 長い音楽だから?それだけではない。
 どちらかというと精神的な問題が先にやってくるのは、旋律があまりに不健全だから大きな音で鳴らしたら近隣に対して恥ずかしく、押入れとか暗い場所でヘッドホンしか方法が無いような気分になる。
 全てとは言わないがマーラーの音楽は傲慢であるのに不安を煽り立てる要素が多く点在し、思い返せばバーンスタインからはそれらの絶望感をいきなり懐疑的態度のまま結論付けたように思い返すのです。
 コンサートマスターと泣きながら抱き合ったりして・・お客も大騒ぎ。
 とっても良い演奏でしたが、極論として精神的目標を欠いているにも拘らずヒューマニストとしての行為を押し付けられたように感じたというのか、程度の低い例えなら他人のマスターベーションにつき合わされたようなものかもしない。(ファンの人ごめんなさい。)
 そして世間はそれらを承認した。
 吉田秀和先生も称賛したから私もあの時は信じたし、事実誰もが認める名演だったのです。
 でも私はその頃から感覚的にマーラーを隔離したいと考え始めた。
 ところが昨夜の、②のラトル指揮には押し付けも無ければ断定的に結論を下すことも無い。
 かといって希薄ということではなく、寧ろ過去の巨匠以上に情熱的で探究心があるように思われる。
 探究心の源とは?
 説明が難しいのですが、内部環境を一定の状況に保つ働き、つまり恒常性が強く宿っているように感じられるのです。
 私は確かにラトルを聴きに行ったのですが、マエストロは完全にオーケストラの中に溶け込んでいた。
 この状態は普段の演奏会ではあまり無いことで、「小澤征爾を聴きに行った。」とか「バレンボイムを聴いた。」になるでしょうし、9月バイエルンの「ローエングリン」ではオペラなのにケント・ナガノが一番目立っていた。
 思い出したのはアンドレ・マルローが何かに書いていた「無意識ではなく、意識を価値として認める。信徒ではなく、意思を、虚偽ではなく、真実を価値として認める。」のような文章だったかな。
 意志の発見と強さとは、未知なるものへの受容なのではないかと気がつかされたみたいで、それが近代精神の危機を救う手立てにもなりうるだろうし、西欧音楽本来の力なのではないかと感じたのです。
 終演から20時間も経過すれば気持ちも落ち着きどうにか思考できたけれど、実情はこんなにクールではいられなくて、自分でもどうしてか解らないが4楽章に入ったら涙が止まらなくなってしまい、最悪なのはポケットに入れたつもりのハンカチが無くて、もうどうにもならなかった。
 家を出るときに思いのほか寒かったので、レザーのジャケットに着替えて、それでハンカチ忘れた。
 昨日は友人と隣で聴いたのですが、その友人とは春に披露宴の司会した新郎さんで、それから仲良くなり「僕は堀内さんとベルリンフィルが聴きたい!」と情熱に押され一緒にチケットを買ったのです。
 11月22日は「いい夫婦の日」だそうだが、互いのパートナーに留守番させ男二人でベルリンフィル
 涙を見られたらみっともないなと思いながらチラリと隣を見たら、披露宴でも泣かなかったナルシストがびっくりしたことに号泣していた。
 でも我々だけがそういう状況ではなくて、RA席だからよく見えたのですが一階席では涙を拭いている人が大勢いた。
 今年の日本は悲劇的だった。
 人の数だけ悲しみがあった。
 
 ベルリンフィルはほぼ主席奏者が揃っていた。
 ホルンの超絶技巧、終楽章のティンパ二の即興が印象深い。
 それからコンマス樫本大進のお披露目でもあった。
 終演後スタンディングの聴衆にラトルが応え、樫本大進一人を呼び出したが恥ずかしいのか笑顔で直ぐに逃げてしまった。
 私達はレストランンに移動し「今日の素晴らしい演奏に乾杯!」
 しかし集中しすぎで草臥れた。
 
 鎌倉に向かう横須賀線の中で友人にメールした。
 「冷静ではいられない特別な力が加わった印象。
 油断すると体外離脱してしまうような身の危険を感じました。
 演奏を言葉で表すなら「生命」(いのち)です。
 理不尽の繰り返しが人生かもしれません。
 寂しさも嬉しさも暴力も恋愛も、良いことも悪いことも、出会いも別れも、形容が貧弱ですが、大いなる存在の一部でしかない。
 それを音楽が説明してくれました。
 最後は祈りでした。
 死は生まれる前に回帰すること。」
 
 数分後返信。
 「この世の全てには終焉があり、世界は生と死、愛と憎しみ、夏と冬、男と女、本音と建て前、相反するもので成り立つ非常に不安定なもの、その世界観が作曲家と一致する。」
 なるほど、それがマーラーか。
 
 これ以上の演奏会は暫くは無いと思う。