人の死に思うこと ☆ヘルマン・プライの「楽に寄す」
師走も半ばになると山路芳久さんの命日まで数日だなと思いだす。
毎年沢山のお花がご実家に届けられ、ご仏壇の前はお花畑のようになる。
私もいつも喜んでもらえる何かをと考えるのだけれど、数年前から珈琲にしている。
最初は命日に「遊びに来てや!」から訪問させていただいたのですが、その時に珈琲をお土産にしたら、事実誰かしら手を合わせにやってくるから重宝するみたいで、「いつもありがとな。本当に助かっているんや。」昨年も母上ヒデさんが言葉にしてくださったので今年もそうしようかなと、それに愚かな私には他に気が利いたアイデアも思い浮かばない。
あの日1988年12月19日に私は何処で何をしていたのかどうしても思い出すことができない。
11月にはサヴァリッシュ率いるバイエルン国立歌劇場日本公演があり「マイスタージンガー」と「アラベラ」「コシ・ファン・トゥッテ」を聴いていて、ワグナーが上演されたNHKホールに向かって歩いているときに落ち葉のカサカサした秋の音を記憶しているから、あの季節より今日みたいに少しだけ冬が速度を上げながら北に近づいた感じかなと思う。
しかし38歳だったのだからいくらなんでも若すぎるし残念。
年明けの「音楽の友」にアライサと山路さんの対談がカラー数頁で掲載されていて、未来について互いに語り合っているからどうしようもない悲しみだったし、頁の隅の小さな文字「ご冥福を・・」が嘘であってほしいと願った。
後から聞いた話では、時期的に第9テノールのブッキングが変更を余儀なくされ各オーケストラてんてこまいだったそうだ。
これは何だか気になるニュースで、残酷と思われてもいい、つまり私は心の片隅で試合に出場する選択もあったのではないかなと思ってしまった。
私は母親が他界した翌日に仕事をしてしまった。
今でもその行動が正しかったのか判らないが、「あなたはプロでしょ。」と母が言っているような気がしたのだ。
たまたま知り合いホテルマンの妹さんの結婚披露宴の司会を頼まれていて、もちろんコンディションは最悪だったけれど兎に角やってみようと思って出掛けた。
それで「おめでとうございます。」とか喋っていたのでしょうが、不思議なもので宴は盛り上がった。
お開き後の疲労は極限で、やはり晩秋で公園を横切るときに落ち葉がカサカサ音をたてた。
その事実が後日、ホテルのバーテンダーさんにばれてしまい「馬鹿じゃねえか!」本気で怒られて、自分はとんでもない間違いをしたのかもしれないと暫く落ち込んだ。(暫くといっても10分くらい)
そういえば人の代わりに仕事したことは数回ある。
息子が心臓の手術になった女性の代わり、前日に入院した先輩の代わり、声の出なくなった人の代わりにナレーション録音。
「ギャラも取られヘソクリも無くなった。」とか先輩に文句を言われたが、その程度は当たり前の接待である。
それで、なんだっけ?
そう、浅田真央さんの話でしたが、私は批判しているのではなくて今回は仕方のない事だと思うのです。
葛藤はあったはず。
恐らく彼女が一番気にしていることは、自分がグランプリファイナルに出場を決めたことで出場できないことになった次点の選手の存在だと感じるのです。
寒くなってくるとくだらないことに敏感になってしまう。
悪い癖です。
シューベルト「楽に寄す」は母の好きだった曲です。
もちろんヘルマン・プライ。