「ラ・ボエーム」クリスマスの奇跡

 ≪19世紀パリのラテン街、とある建物の屋根裏部屋。詩人ロドルフォ、画家マルチェルロ、音楽家ショナール、哲学者コルリーネ、ボヘミアン達の共同生活。小銭の入ったショナールは「カフェはご馳走の山だ。」と仲間を誘いだす。仕事を片付けたいロドルフォは「後から行くから。」と独り屋根裏部屋に残る。そこにお針子のミミが訪ねてくる。「キャンドルの炎が消えてしまいました。火をお分けいただいてもよろしいでしょうか。」これが運命的なロドルフォとミミの出会い。≫
 いかにも不自然である。
 キャンドルの炎は本当に風の悪戯なのか、もしかしたらわざとミミが消したのかもしれない。
 ミミは身体の具合が良くない。
 ロドルフォは「どうしよう。」と心配するが、仮病かもしれない。
 灯りを貰ったミミは「ヴォナセーラ」と言葉にし部屋を出る。
 ところがミミは「いけない、鍵を落としたみたい。」
 そして「あら火がまた消えてしまった。」
 ミミは悪女かもしれないな、なんて考えたのは「ボエーム」がテレビ放送する前に対訳を読んだ時の個人的な感想で、その夜スカラ座日本公演クライバー指揮ゼッフィレルリ演出を観た。
 ロドルフォはドヴォルスキーでミミはフレーニ、これが私の初「ボエーム」鑑賞だった。
 クライバーのドラマティクな表現とゼッフィレルリの気が利いた演出には本当に驚かされた。
 スカラ座は2度「ボエーム」を日本で上演していて、何年も経ってからの再来日時はチケットを購入できた。
 最上級の経験だった。
 あまりに凄すぎて最初に感じた・・不自然な出会い・・については忘れていたけれど、そのまた数年後同じ演出でウィーン国立の天井桟敷立見席でフレーニを聴くことができて、その時に思い出した。
 この時は当初カレーラスがロドルフォを歌う予定になっていて、当日券を求める人たちが数日前から寝袋持参での長い行列ができていたから私は諦めていた。
 それでミュンヒェンに夜行電車で出かけ、バイエルンオペラで「オルレアンの少女」を鑑賞して、その日は安ペンションに宿泊。それでまたウィーンに戻ってきた。
 その足でぶらぶらオペラハウスに行ってみたら、なんと行列が無くなっているから驚いて入口のポスター見たら出演者がカレーラスからクピードに変更になっていた。
 こいつはラッキーと急いで宿のチェックインして劇場に逆戻り、結果それで観れた。
 指揮者は誰だか忘れたし、ウィーン国立でも日常公演は脱力した演奏で、いくら凄い演出でも巨匠ゼッフィレルリも3回目だし、天井桟敷からは殆ど見えないから色々考えながら聴けるコンディションだっだ。
 巨匠の演出では偶然の出会い。(原作では娼婦)
 恐らく聴衆の誰もが偶然の出会いを期待しているだろけれど、もしかしてわざと鍵を落とす演出があってもいいのかなと思った。
 ただ歌手が選べたらいいのかもしれない。
 パヴァロッティの時はそこぬけに明るい声質で知性欠落みたいなキャラクターだから通用しないかもしれないけれど、もしカレーラスならと考えた。
 その場合作為的な出会いであったとしても、詩人(カレーラス)が詩(ミミ)を見つけだした瞬間だったのなら一つの悲劇的運命の象徴として受諾できるように思われるということ。
 つまりクリスマスの奇跡だ。
 前に女性から、その辺の話で突っ込まれた質問をされた記憶がある。
 「キャンドルの炎が消えた瞬間に恋は始まっているのだよ。」と、自分でも鳥肌が立つようなキザな言葉で返事をしたのですが、なんであんなこと言ったのか解らない。
 動画は英国ロイヤルオペラで詩人ロドルフォがニール・シコフ、ミミはコトルバシュ。
 「冷たき手を」が素晴らしい。
 この歌に関してはシコフが一番好きである。
 
 さて、カフェ・モミュスで仲間が待っているので支度をしなければ。
 そろそろミミが来ると思うのだけれど・・・