テノール馬鹿「アンドレア・シェ二エ」マルティヌッチ Son Io

 テノール馬鹿シリーズを今年も続けさせていただきたいと思っているが、あんまりテノール馬鹿がいないもんだからどうしても同じ人ばかりになってしまう。
 そんなわけで何度目の登場だかもう分からないけれど、お気に入りニコラ・マルティヌッチである。
 ジョルダーノ作曲「アンドレア・シェ二エ」からオペラ最後のシーン「マッダレーナとシェ二エの二重唱」で、これはアプレーリ・ミッロと共演したメトロポリタンでのライヴ録音である。
 ミッロといえば一時期メトの女神みたいな存在で人気も高く、さぞかし儲けていたと思うのですが、いつのまにか舞台に出なくなってしまった。
 感じとしてはアメリカのホームドラマでミートローフを作る主人公の妻みたいな雰囲気で、好きじゃあないけれど実力があるソプラノだなと思っていた。
 2度実演で聴いていて、最初はメトの日本公演ドミンゴと共演した「仮面舞踏会」で、もう1回は東京文化会館でピアノ伴奏のリサイタル。
 不思議なもので両方とも記憶が薄くて、「仮面舞踏会」では招待券を貰ったこと、ハープ奏者の女性とご一緒させていただいたこと、1階席5列目の席でレヴァインがやたらデカク見えたこと、それからリッカルド役のドミンゴが登場しただけでご婦人方が「わぁ~!」と言いながら周囲から拍手が起きたこと等を記憶している。
 リサイタルに関しての記憶は更に酷いもので、5階のセンター席からステージを見下ろしながら聴いていて、ミッロはモーツァルトを歌うとき眼鏡をかけて楽譜を一生懸命見ていたことだけ鮮明に憶えている。
 眼鏡をかけた彼女は、なんだっけ?名前も忘れたが映画でダスティン・ホフマンが女装したような状態みたいに見えた。
 つまり歌に関しての記憶が全く無いのである。
 記憶が無くて悲しいとも思わないからどうでもいいのですが、この二重唱を聴いて少しビブラートが気になるけれど悪くないと感じた。
 如何にもアメリカ人が好きそうな劇的な歌い方ではあるが、たぶんその後のルネ・フレミングアンナ・ネトレプコみたいな存在で、例えば現実は知らないけれど、「トラヴィアータ」1幕の最後で冒険しないで纏めちゃって「ここはミラノじゃなくてニューヨークだからいいの。それに私は歌姫。」みたいな、積極的に芸術否定を演じながらも聴衆は積極的に肯定するようなアメリカンな矛盾で、「ああメトロポリタンオペラだな・・」とか個人的に思うのです。
 別に理解されなくてもいいので上記は独り言です。
 それでマルティヌッチであるが、そこそこ調子は良いと感じられるが本当はもっと凄い歌唱の場合もあると私は知っている。(ニューヨーカーを納得させるには充分である。)
 だいたいこの人にメトは合わないような気がするのですが、この日は3大テナーの代役かなんかだろう。
 今回注目した箇所は、最後のシーンで牢番が名前を告げ2人がそれぞれ返事をするところだからマニアックかもしれないが、さすがマルティヌッチ!私は素晴らしいと思った。
 牢番 「Andrea Chenier」(アンドレア・シェ二エ)
 シェ二エ 「Son Io」(私だ) のやり取りである。
 この部分のすり込みはデル・モナコが東京で歌った録音でくぐもった悲壮感溢れる「呟き」だった。
 その後に聴いたのはドミンゴの死を恐れるような怯えた「叫び」で、それからカレーラスは不器用だなとか、コレルリは独特だなとか、良いことではないけれど、どうしてもあの言葉は目立つから無意識のうちに色々対比してしまっていた。
 そんな中、パヴァロッティに関しては明るい声質のまま「希望」を感じさせてくれたから少なからず驚かされた。  しかし誰を聴いても完全に納得できるものに感じられなかったのは、演出にもよるだろうけれど、せっかく時間をかけて積み上げられた音の連なりが、たかが一言で崩れてしまうような脆さにあると思われる。
 このへんがジョルダーノなのかもしれないのは、ヴェルディの音楽には不安定な材料が見えてこないから。
 マルティヌッチの表現は、どうやら音楽的にはこれが正解なのかな。
 迷いの無い堂々とした太い声で「歌う」のである。
 気持ちも途切れず、寧ろ胸の高鳴りを覚える。
 こういう歌を聴きたい。
 
 しかし最後のところ・・レヴァイン!鳴らしすぎでうるさいんだよ。お前主役じゃないだろうが。