クリスティーネ・シェーファー リサイタル

 楽しみにしていたシェーファーのリサイタル。7月2日 王子ホール
 ピアノ伴奏エリック・シュナイダー、「冬の旅」のCDで共演している人。
 先日の名古屋公演ではヘンリー・パーセルとジョージ・クラムという異色のプログラムだったそうで、ゆとりがあれば聴きに行きたかった。
 東京ではノーマルな作曲家が名を連ねたが、普段公の場であまり接する事ができない選曲はいかにもシェーファーらしいと興味は尽きない。
 そして300席程度の王子ホールで鑑賞できる喜び。僕の席は比較的後の列でしたが、ちょうど歌手の真正面に位置しリートを聴くには最高の場所。その昔ルネ・コロを聴いた時は声量が強すぎて音楽的には飽和状態だったけれど、シェーファーでは具合が良く、大袈裟な表現をするなら今回の来日公演で最も理想的な声を獲得できた一人が自分だったように思われた。
 
 <プログラム>
 静けさはほほえみつつ K152 
 すみれ K476
 クローエに K524 
 哀れな私はどこにいるの K369
 ゲオルゲの詩による5つの歌 作品3
 あなたのためだけの歌 風のそよぎに 小川のほとり 朝霧の中を 木は葉を落とし
 ☆ベルク
 7つの初期の歌
 夜 葦の歌 夜鳴き鶯 夢を抱いて この部屋で 愛の賛歌 夏の日々
  休憩20分 
 エレンの歌 D837-879
 (休め兵士よ 狩人よ、狩を終えて休め アヴェ:マリア)
 月に寄せるさすらい人の歌 D870
 秋の月に寄す D614
 解消 D807
 さすらい人 D649
 デルフィーネの歌 D857-2
 フローリオの歌 D857-1
 
 シェーファーは久しぶりですから、年齢を重ねた顔つきになっているのだろうか?とか、小さな身体で25曲も歌えるのだろうか?しかも煙草をやる人だし、DVDの「月に憑かれたピエロ」なんか観ていると声楽家というよりはパンクな女性に感じられてくるから、声を失っていたらどうしようと不安な気持ちでいっぱいだった。
 しかしステージに登場した彼女は8年前と変わらない「私のクリスティーネ」だった。
 気のせいか寧ろ若くなったように感じられたのは髪型が極端なオカッパ頭になっていて、(大胆にもオデコの真ん中より少し上くらいでざっくりカットしてある。)誰か身近な知り合いがいきなりあんなヘアースタイルになったら爆笑しそうだけれど、それが似合ってしまうのですから魅力的な女性なのだろう。奇妙な考え方ですが、もしモヒカンやスキンヘッドだったとしても受け入れられるように思えてくる。
 最初のK152で衰えの不安は吹き飛んだ。「なんて美しい声なのだろう」不覚にもブログ411回目の記事で初めて絵文字を使用。なんとなくヤフーに魂を売った気分である。
 Tu vieni frattanto A stringer mio bene Le dolce catene Si grate al mio cor,愛する人よ、君がやってくる、・・・・・・・、甘美な鎖を、心地よく、私の心に締めつけようとする。(・・・・は何だか解らない部分)
 だいたい翻訳なんか不可能だから適当なのですが、作詞者不詳の「静けさはほほえみつつ」のここだけ取り出すとボードレールのように美しいが中身はマゾッホみたいに思われる。そういえば家人が言うに「あなたはシェーファーに鞭打たれたいと思っているでしょう。」とか的確だが失礼な発言をしてきたことがある。しかし、現実に鞭打たれたら「痛いじゃねえか、このやろう!」だと思う。
 2曲目K476が当夜唯一のゲーテだった。全てを暗記しているわけではないけれど不思議なもので言葉が目に見えるように伝わってくる。なんて子音が美しいのだろう。
 「永遠の故郷」CD版で、ルネ・フレミングのあれはヴェルレーヌだからフランス語だけれど、ビブラートが強すぎて何を歌っているのか全く解らない歌手だって世の中にはいて、(フレミングはリートではなくオペラ専門のイメージが強いけれど。)人気と表現が必ずしも一致しないということでしょうか。
 ビブラートとが強いといえば、数年前にN響定期に出演したアンナ・トモワシントウが最も聴きづらい歌唱だったと思い出した。しかし、言葉が明瞭で技術が高度でもグルヴェローバみたいにリートで本領を発揮できない資質の歌手もいるのですから、シェーファーの存在がいかに貴重なのか改めて有難みを強く持つ。
 バラードの文化を持つゲルマン圏を羨ましく思う。
 K369はコンサート用のレシタティーボとアリア。大きく響き渡る声の魅力に圧倒された。
 『おいM列14番席のオヤジ、歌詞カードばかり読みながら聴いているくせに「ブラボー!」って煩いんだよ!』  いつだってそうだけれど、多少の妥協は仕方が無い。
 しかし、名古屋では始まる前に「曲間で拍手はしないでください。」とナレーションがあったそうですが、王子ホールの300人は歌曲が好きな人ばかりなのか案内無しでもそういう現象も起きないのですから、「さすが銀座」である。
 なんとウェーベルンアルバン・ベルクの間でも拍手が無かったから、極めて居心地の良い時間が流れた。とか書きながら、2人の音楽の違いが解らないまま拍手できなかった聴衆が約250人位はいたような雰囲気がしなくもなかった。
 恐らく無調の作品でシェーファーの実力が一番発揮されたように感じた。ここでのベルクは基本調性音楽だけれど、目の前にいる彼女は世界一の「ルル」なのだから、旋律がどうこうではなく、時に詩をも超越し、まるでゲオルゲやレーナウが憑依したように歌を語るのである。
 Das Feld ist brach,Der Baum noch grau,,,Blumen steut vielleicht Der Lenz uns nach.
 畑はまだ耕されず 木はまだ芽吹かない 花の種は蒔かれたのか 我らの春はまだ先か 
 ゲオルゲの詩集は眠れない夜に開くのですが、実情は知りませんが書斎の人と感じていた。シェーファーの憑依は過剰な表現かもしれないけれど、どうしたわけか荒涼とした大地に立てる女性像を想起させる。
 白い衣裳に身を纏った無表情の女性がまるで人形のように立っている。つまりミレーの絵画のように力強く働く農婦の姿ではない。実存以上に写実的とでも表現したら良いのでしょうか。象徴主義の絵画が更にスーパーリアリズムに進化した印象。死体ではない。肉体は温かい。
 以前からウィーン楽派の作品に夜の東京を融合させてみたいという奇妙な感覚があって、できれば歌舞伎町とか渋谷辺りの危険な場所が理想なのですが、イヤホンタイプのオーディオで脳を覚醒させるようにベルクを鳴らしながら歩いてみたい。
 音楽的には後半のシューベルトが最も惹きつけられる。
 これはシェーファーの実力以前に、やっぱり作品としてシューベルトは素晴らしい。
 個人的に一番心待ちにしていたD837・838・839「エレンの歌」は最初だった。
 詩人スコットの叙事詩「湖上の美女」から引用され、シュトルクのドイツ語翻訳にシューベルトが1825年に作曲した。1828年に他界しているから作曲家27~28歳の時ということ。
 D837では戦いに疲れた騎士を労わり、D838では騎士が狩人に置き換えられ表現され、D839はエレンが父の無事を祈り聖母マリアに祈りを捧げる「アヴェ・マリア」である。
 僕は「アヴェ・マリア」を世間が宗教音楽と思い込んでいる状況にストレスを抱えていた。
 8年前にアーウィン・ゲージの伴奏でシェーファーが公演した時に、記憶も曖昧なのですが、たしかアンコールで「アヴェ・マリア」が歌われ、聴き手は限りなく宗教的な世界に導かれてしまった。或いは聴衆がその世界を作り上げたような感じもした。
 とにかく今回は「エレンの歌」として聴くことができたのですから貴重な体験だった。そして続けて歌う場合、歌手にはとても大変な音楽なのだと学習した。D837は長く体力が必要とされるので、どこかでペース配分をしなければ3曲目で厳しい状況に陥る可能性があるみたい。それでもシェーファーは歌いきった。一瞬危険な部分があったけれど、感動的な「アヴェ・マリア」だったですし、なによりも独立して有名になりすぎた一曲が少なからずホールの中ではエレンの一部分として開放された事実を報告したい。
 他のシューベルトも素晴らしかったので詳しく記したい気持ちもあるのですが、すでに長い文章になっているから割愛させていただきます。
 
 アンコールが3曲ありました。
 僕はR・シュトラウス「Morgen」が聴いてみたかった。
 1曲目は、シューベルトでD827の「夜と夢」
 2曲目、R・シュトラウス「アモール」で超絶技巧を表現。
 そして最後の3曲目、本当に驚いたのですが、なんと「Morgen」だった。
 ピアノの前奏の段階で涙が溢れ、もうどうにもならない状況になってしまった。
 
 明日、太陽は再び輝くでしょう 
 そして私の歩む道を照らしてくださるでしょう 
 あの人と再会し 幸せになれるでしょう
 光ある、この地上で、青い波の打ち寄せる浜辺に
 私たちは、ゆっくりと降りてゆき
 黙ったまま見つめあうでしょう
 言葉を交わさず、喜びが私たちをつつむでしょう
 
 長い沈黙。拍手ができない。感動的だった。
 
 シェーファーは数年前映画監督のご主人を亡くされた。
 ご主人の死後出産されている。
 DVDで入手可能な「詩人の恋」「月に憑かれたピエロ」が残された作品なのですが、奥様に対する愛情が強く感じられる内容。
 
 
 銀の薔薇をクリスティーネにプレゼントしたい。
 どこに行ったら売っているのだろう。
 完全に惚れた。
 「Ich liebe dich!」
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