Loforese 92anni Tenore

 今年92歳になったロフォレーゼの「衣装を着けろ」
 つい先月の日本公演の動画をyoutubeからお借りいたしました。
 公演があることをブログを通じて教えてくださった親切な方がいたのですが、残念ながら仕事が忙しい日で会場に行くことができなかった。
 実際にホールでどのように響くのか聴いてみたかった。
 ここまで歌えるのなら次回を期待しても良いような気がしてくる。
 ただ、今回少し心配になったのは、他の曲でかなり伴奏と合わずに歌いだしたり、相当に危なっかしい瞬間が沢山あったことで、誰もが避けて通れない老いの問題を感じないではいられない。
 それは「女心の歌」なのだけれど、当然アップしないですし、僕は二度と動画サイトであのヴェルディに関しては聴かないと思う。
 吉田秀和先生のエッセイにそんな話があったと記憶していまして、場所は新宿で信号が青になる前に人々が交差点を歩き出した瞬間に、ご自身の老いを体感されたのだった。
 横断歩道を渡り終えた時、「ここに立つ資格が無くなっていた。」たしかそんな言葉で書かれていた。
 なにも今回のロフォレーゼに同じようなものを当て嵌めて考えているのではなく、誰もが吉田先生のように気づくものでもないだろうから、歌手と一生懸命歌に合わせようと努力している伴奏者が何も感じないで演奏しているのならまだいいのだけれど、演奏会終了後に彼らは何を考えたのか少しばかり気になったのです。
 
 僕の仕事は土日祝に固まってやってくることが多いので、これまで実に多くの名演を聴き逃してきた。
 それでも本当に凄い演奏家の場合は何度も仕事を投げ出してきたけれど、最近はかなり慎重になって仕事を優先する立場を取ってきている。
 どちらが幸せなのか分からないけれど、仕事を優先したことで得られた友情や、表現が難しいけれどかけがえのない気分と遭遇したり、或いは全部が逆だったりすることもある。
 音楽会に出かけても当たり外れは存在するのですが、今ではレコードやCDで聴けるベームウィーンフィルの日本公演のライヴ録音を聴いていて似たような感覚に陥ったことがあると急に思い出した。僕は生では聴いたことが無い。
 ただ真鍋圭子さんの本を読んでいて1975年、77年、それと81年(?)に最後の来日をしていて、どれも素晴らしい演奏なのですが、77年の時にアンコールでレオノーレ3番を演奏した。
 たしか、その翌日ベームが電話してきて「昨日の演奏は一部納得のいかない箇所があるから、テレビ放送をしないでほしい。」とか言ってきたけれど、間に合わなくて放送されてしまった。
 重要なのは電話があった事実で、そのときベームの脳は老いていないことになる、ということ。
 その録音は聴いたのでどの箇所を指摘しているのか判るのですが、原因までは判らない。
 喉の奥に魚の骨が引っ掛かったみたいで気持ちが悪いのですが、次に晩年の来日公演を聴いてみたら、正直な感想として、「ああ駄目になった。」と思ったのです。それでも完全否定ではなくて、ベートーヴェン聴きながら感動のあまりウルウルしてしまったのだから、音楽って何?と思った次第です。
 
 今日も可笑しな文章ですが、書いてしまったから保存します。