珈琲とライターとCDと本

 先日仕事で御茶ノ水まで行ったのでディスクユニオンでCDを2枚、神保町の小宮山書店ガレッジセールで本を3冊購入し、最後は神田伯剌西爾仏蘭西ブレンド」で休憩した。
 店の奥に囲炉裏の形をした奇妙なテーブルがあって、そこだけ暗黙のうちに相席が強要されている。
 相席といっても、最初からプライベートが保護されているみたいな気持ちになれる場所だから、たぶん良いテーブルなのだろう。つまり隣にいる人があんまり気にならない仕組みで、それでいて座ってみれば店の隅々まで見えてくるから、神経質な性格の僕は店員の動きや周囲のお客の様子を観察してしまう。
 夏は神田に来なかったから数ヶ月ぶりなのですが、何かが変わったような気がして落ち着かなかった。
 僕の隣は30代半ば位の女性が2人、久しぶりに会ったみたいで、それぞれの少しだけ過去の日常が会話の主軸になっていた。
 暫くしたら煙草をやる片方の女性の突然ライターが点かなくなってしまい、「すいませんがライターお借りしてもいいでしょうか?」と話かけてきて、勿論「どうぞ。」と提供したけれど、自分のライターもガスが無くなりかけていたことに気がついて少し心配、しかしその作業は亜米利加煙草を銜えた彼女の右手の中で2回目に問題なく終了した。
 その後2人は忙しげに会話を続け、あっという間に炎は灰皿のなかでかき消され、こちらに笑顔で会釈し店を出て行ったが、あの瞬間が100円ライター最後の灯火だったと確認することになった。
 薄い紅の残った数本の吸殻を眺めながら、もしかしたら彼女はあまり幸せではないのかもしれない、なんて考えた。
 理由は分からないし根拠のない思い込み。でも、そう思った。
 これは否定ではなく、ライターを受け取り互いの指先が触れ合った時に、女性の醸し出す極めて根源的な潤いを感じ取り、もしも煙草の彼女一人だけが隣にいたとしたら少しだけ未来の日常が変わっていたかもしれないと勝手に想像した。
 他のテーブルは皆一人で来ていて、その辺の古書店で購入したであろう絶対に新品とは言えない汚れた本に集中しているいつもの神保町の光景が微かに漂う青い煙の向こう側に見えてくる。
 何かが変わったと感じた理由は、珈琲の淹れ方が以前に比べて雑になっているだけだったみたい。
 無言のまま額に汗をかきカウンターの中で仕事している店長(たぶん?)に何があったのか知らないけれど、正しいドリップ珈琲の淹れ方を教えたくなってしまう程で、あれも性格なのかな。
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 CDは、リリング指揮のバッハ「狩のカンタータ」と「珈琲カンタータ」 それとブーレーズマーラー「復活」 両方ともシェーファーが歌っているから買ってみた。(狩のカンタータは別のソプラノ)
 「珈琲カンタータ」はあまりの素晴らしさに3回続けて聴いてしまった。バッハ時代の世俗的な珈琲の話で、馬鹿馬鹿しいと思う人もいるだろうけれど、でも歌詞はマタイと同じ人。このギャップがいい。
 そういえば「詩人の恋」のDVDにあるインタヴューはドイツのどこかの街のカフェで収録されていて、シェーファーカプチーノを注文していたっけ。
 
 「復活」は最後の歌の部分しか聴いていないけれど、ジークフリートの小鳥のように繊細なシェーファーがあまりに巨大な時空の中でウィーンPと競い合うように懸命に生と死を歌う。歌ってしまう現実が、なんとも痛ましい。(写真のシェーファーはザルツ「フィガロ」のワンシーンで少しだけ見えるスカートはネトレプコ。見えない指揮者はアーノンクール。)
 ガレッジセールの本は1冊でも2冊でも3冊でも500円だから、いつも3冊頑張って探す。
 「武満 徹」のユリイカ昭和50年の1月号と、小塩 節「ブレンナー峠を超えて」は直ぐに決められたけれど、もう1つがなかなか見つからない。夕方になっていたから店員が本を片付け始めて、こちらも慌ててただタイトルが気になって島田雅彦「ドンナ・アンナ」にした。いつになったら読むのやら。ユリイカに吉田先生が2ページ書いていた。
 しかし今回は小塩氏の本が最も面白く、しかも文体が詩的で美しい。
 かつてモーツァルトゲーテデューラーがアルプスを越えイタリアを目指した。
 あるがままを見、感じ、躍動する柔軟な精神、生命のうねりを彼らは自ら書き(描き)記した。
 バッハ時代のコーヒーハウスは、果たして何処から珈琲豆を調達していたのやら?トルコ方面からと考えることが自然に感じられるけれど、ケニアタンザニア豆が船便でイタリアに、そして陸路馬車に大量の豆を載せてブレンナー峠からインスブルック経由でミュンヘンから北東を目指しライプチッヒ(或いはザルツブルクからウィーンを目指し文化として開花した)なんて考えても良さそうな気がしてくる。
 つまり珈琲は文化だとしたら、やはり雑な淹れ方はいかがなものか。
 愛情を込めてドリップに集中すべし、「君を知るや、南の国」である。