もう死んでいる。

 マイブームの「グールド・モーツァルト全集」を聴きながら良い音とはなんだろう?なんて考えていた。
 「あんたはどう思う?」とグールドに話しかけてみると、「ウウウ~1階席の真中辺りで妥協したらいい。ア~ウ」と返してきたような気がした。
 先日スクラップしてあった昔の新聞(巨匠の死亡記事)をブログとして扱ったのだけれど、朝日のグールドの死亡記事は記憶していて、たいして大きな記事でもなく、10センチ四方程度の紙面に小さな顔写真が載っていた。
 今となっては悔やまれる、何故あのとき新聞を切り取らなかったのかだけれど、理由は簡単で、人前で演奏しないピアニストが死んだと言われても実感が湧かないというか、別の感覚として「あの人は最初から死んでいた。」ようにしか思えなかったから。極端な話だけれど、新しいCDが発売されるたびに「まだ生きている。」ような気がしなくもない。
 それで思い出しましたが、数年前に文芸春秋を読んでいたら「どのような死に方をしたいか?」と様々な文化人に質問している内容で、誰とは言わないけれど「野たれ死にがいい。」とか「癌で、何故ならば」とか皆好き勝手にかっこいいことを表明していて、どれもこれも面白みの無い文章ばかり。
 そんな中、たった一人だけ衝撃的な言葉が出てきた。
 それは古井由吉氏の、「もう死んでいる。」・・・本当に吃驚した。(何故死んでいるのかは、書くのが大変なので気になる人は個々に調べてください。)
 この人は、非社会的で究極の内向性を追求した小説ばかりで、特に男と女の関係性は他の作家の追随を許さない。しかも文壇とも距離をとっていられる。なんといっても「もう死んでいる」のだから。70代半ばだけれど。
 この本が好きだ。「ようこ」「つまごみ」と読む。
                  イメージ 1
 グールドにしても、古井由吉にしても、本人を見たことはない。死体を見たわけでもない。だとしたら生き死にの確証なんぞ最初から存在していないようなものと考えてしまった。
 先日、丸谷才一氏が他界。寂しさを紛らわすかのように、数日丸谷文学ばかり読み返していたのだけれど「まだ生きている。」は無くて「死んだんだ。」と痛烈に感じたのは、あの鋭利な文体が急激に推進力を失い過去のものに思われたからで、この奇妙な感覚は何なのだろうと、考えていたら気分が悪くなってきた。
 
 「ワルキューレ」第3幕でブリュンヒルデによるジークリンデへの受胎告知は素晴らしい音の構築で、感動はあの美しきジークフリートの動機に由来する。作品としてはまだ10時間以上先の英雄の死が生まれ出前から聴き手に突きつけられる。ワグナーの作品の中で「指環」に関してだけは時間が進まなければ幸せでいられるのに、聴くたびに悲しみを背負い死の恐怖から逃れられない性を呪いたくなる。
 
 今夜、フェドセーエフ指揮のチャイコフスキー・オーケストラ(旧モスクワ放送О)を聴きにいってきます。
 いつものP席だから1階の真中のような良い音ではない。
 良い音?そんなものどうでもいい。
 僕は生きている音楽が聴きたいだけ。