ウィーン国立歌劇場「アンナ・ボレーナ」グルベローヴァ

 ドニゼッティ歌劇「アンナ・ボレーナ」
 
 エンリーコ8世      ルカ・ピサロー二
 ジョヴァンナ・シーモア ソニア・ガナッシ
 リッカルド・パーシー卿 シャルヴァ・ムケリア
 ロシュフォール卿    ダン・ポール・ドゥミトレスク
 スメトン          エリザベス・クールマン
 ハーヴェイ        カルロス・オスナ
 指揮 エヴェリーノ・ピド  演出 エリック・ジェノヴェーゼ 他
 10月31日 東京文化会館 18時30分開演
 
 お客さんの雰囲気が上品で好ましい。(つい数日前のNHK音楽祭がいかに酷かったか怒りを覚える。)
 
 10月は忙しく精神的にしんどい瞬間も多く、治っていたと思っていたのに首やお腹が痒くなったりアレルギー的な症状が出てしまった。身体が疲れているとそいつが出やすくなる。
 演奏会やオペラを鑑賞するとき、場合によるのですが仕事以上に自分を追い込みながら鑑賞してしまう愚かな癖がありまして、特に昨日は酷かったのは、最後のグルベローヴァだったから仕方のないこと。
 もう引退期日のカウントダウンに入っていて、その一環が今回の日本公演で、これまで何回実演に接してきたのかな。もうなんだか分からないくらい聴いてきた。
 そして今更ながら気がついたのは、体調不良だからとか歌手にありがちな言い訳をすることは一度もなく、常に歌の素晴らしさ、しかも人の声の極限以上の世界を教えてくれた。
 もっともキャンセルしても代役の務まる歌手などいないけれど、万が一怪我をしたり声が出なかったり人間なのだから起こりうること。しかし代役もキャンセルもしないで、いつだって万全の状態でステージに現れた歌手がグルベローヴァだった。
 感謝という簡単な言葉では片付けられない、もっと大きな「ありがとう」を感じたのです。
 あと少しで普通の人と同じように風邪をひける生活ができるのですね。
 
 
 最初に聴いたのはオペラアリアでのリサイタルだと記憶していて、ロッシーニモーツァルトヴェルディ、そしてトマやド二ゼッティの「狂乱の場」をフルートやピッコロのように歌いながら、それでもまだまだゆとりが保たれている典雅な歌唱だった。
 あの頃FMで「夜の女王のアリア」を聴いていたら、解説の評論家が「彼女がコロラトゥーラでいられるのも、あと数年でしょうね。それまでにレナータ・スコットのように成熟した大人の表現を獲得することが課題かと思われます。」みたいな話をしていた。確かに、誰でも人間である以上年齢を重ねることから逃れることはできないけれど、歌姫はコロラトゥーラを維持しながら大人の表現を獲得してしまった。評論家先生の当時の発言は間違いではなく、それ以前は40歳位までがあの歌い方の限界が定説だったから、別の言い方をするなら過去の誰もが成しえなかった奇跡を作り上げたことになるのです。
 「ルチア」「シャモニーのリンダ」「清教徒」「リサイタル」etc、それでも聴くたびに徐々に透明度が失われていく声質に僕は気がついていたし、毎回舞台を見つめながら「どうか超絶アリアを乗り切ってください。」と祈るような気持ちだったけれど、いつでも決めなければいけない箇所は完璧に歌ってしまう。歌うことの素晴らしさ。そして歌える状況で身を引く潔さ。
 少し音を外していたとか色々書く人はいると思いますが、そういうのは今回に限り勇み足だと定義したい。
 不満ならさっさと帰ればいい。それ以前に自分で歌ってみろと言いたい。
 
 以前ブログで紹介しましたが、数年前に幾つかの奇跡的偶然が重なり上野の楽屋に訪問させていただいて、僕は緊張してしまい何を話したのか混乱してしまったけれど、(正確には緊張ではなくビビッていた。)それがきっかけでウィーンとバイエルンで共演された夭折のテナー山路芳久さんのお母様とグルベローヴァの出会いの時間を作ることができた。ドイツ語通訳のMさんのお蔭で本当に感謝しているのです。明日久しぶりに山路さんに電話してみよう。
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 このサインは昨年のバイエルン国立歌劇場公演「ロベルト・デヴェリュー」終演後、サインが貰いたい訳では無かったのですが、Mさんが「堀内さん、好きな写真選んで!」それでは「これ」若き日のリサイタルのブロマイドにサインを頂戴した。恐ろしいのは本人も僕のことを憶えていて「山路さんのお母様とお姉様によろしくお伝えください。」だいたいグルベローヴァが「よろしく」って人生の異常事態としか考えられないから気絶しそうになった。
 
 「アンナ・ボレーナ」の話にならないのは思い入れがありすぎて、もうどうにもならないが冷静に振り返るなら、ピサローニ、ガナッシ、ムケリア等の出演者は驚くほどレベルが高い歌唱で、唖然としながら約3時間ド二ゼッティの世界に溺れていた状況だったのです。ガナッシはバイエルンの時も来日していたし新国にも歌いに来ているからご存知の人も多いかと思いますけれど、更に磨きがかかってきた印象。ムケリアは典型的なベルカントのテナーで今後多くの役柄に挑んでいくのではないかしらん。今回個人的に最も引きつけられたのはバリトンピサロー二。このオペラではエンリーコ(つまりヘンリー8世)という極悪非道の役柄なのだけれど、ヴェルディの「ドン・カルロ」や「仮面舞踏会」「トロヴァトーレ」あたりを聴いてみたくなってしまいました。ファンになりそうである。たぶん皆若い歌手だと思うのですが・・無責任な言葉なのは月末でお金が無くてプログラムを買わなかったので、ガナッシ以外の人のプロフィールが全く解らないのです。だって2,500円ですよ。
 当初の予定では薔薇の花束をグルベローヴァに届ける予定にしていたのですが、プログラムに躊躇している状況で花を買えるはずないから中止した。しかし休憩時間にMさんにご挨拶ができて良かった。
 指揮者のピドは初めて聴いたのですが実に素晴らしく、ベルカントオペラの専門家だと思うのですが、歌手の邪魔にならない抑制の効いた音楽を作り出す。(つまり良い意味でマゼールと正反対)オケも素晴らしい。現地ウィーンでは年がら年中こんなにしっかり演奏していないと思いますが、全てはグルベローヴァ効果なのでしょう。でも、さすがウィーンオペラには品格があります。
 演出はウィーン的で手堅い内容と申しますか、ウインザー城等を想起するものではではなく象徴的でシンプルなイメージ。それに対し衣装はヘンリー8世の有名な肖像画と同じような雰囲気ですから、恐らく16世紀の再現だと思いました。リッカルドがエンリーコに「アンナは私の妻・・」と語る場面ではリッカルドとアンナは青い衣装で緑色のライトにより照らし出された。これがロイヤルブルーでありグリーンと想像し、英国に流れた血を「青き血」と言われていたことを思い出したが真偽は分からない。ちなみにこのシーンからエンリーコは白い衣装に変わっていた。意味があるのでしょう。
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 アンナ(アン・ブーリンのこと)「狂乱の場」は聞こえるか聞こえないかのギリギリのピアーノで表現され、他のソプラノがどのように歌っているのか興味をそそられたのは、聴いてみなければ判らないけれども、カラスや現在ならネトレプコ等は比較的太い声だからグルベローヴァのように繊細な表現は難しいように感じられるのです。
 どのくらいのピアーノだったのか、しっかり5階席まで届く芯のある声なのだけれど普段気にならない東京文化会館の空調の音も一緒に聞こえてきたのだから、遠くまで聞こえるのに相当に小さくて、アンナの苦悩が若き時代の表現できなかった演技でもカバーされた。
 最後のシーン、オペラグラスでグルベローヴァだけを見つめた。
 人間の限界の声を超えるかのような高音を(鼓膜がキンキンするフォルテ)息の続く限り伸ばしドラマは終わった。スタンディングでのカーテンコールが長く続いた。
 実は高音の直前、グルベローヴァが大きくブレスをした時に、ほんの一瞬だけれど翳を見た。
 なんだか寂しそうな表情に感じられたのです。ジーンとしてしまった。
 
 
 日本にはもう来ないけれど、2015年ベルリー二の「異邦人」が最後のようです。
 その時、ディーバは68?69?歳だと思います。