イノック・アーデン

 数日前のこと、アンプのスイッチを入れたら奇怪な音がして、右側のスピーカーから音が出なくなってしまった。
 たぶんヒューズが飛んだのかと思うのですが、この故障は人生二度目の経験で、最初は随分昔の話だけれどマランツのレシーバーを使用していた時で、今回はDENONのアンプ。でも鑑賞用というよりはBGM用に音楽を鳴らしていたセカンド機材ですから、そんなに落胆している訳ではない。
 しかしながら不幸なのはアンプと共に無理心中させられたスピーカーで前回も今回もシーメンスの古いフルレンジ。シーメンスと僕の相性が悪いのかもしれないけれど壊れたものは仕方がない。
 そんなことから機械周辺を片付けて、掃除機掛けて、少し綺麗になった部屋に何故か居心地の良さが感じられた。それからコーヒーを淹れてCDを聴き始めた。もちろんメインの機械で鳴らした。そのCDがこれ。
イメージ 1
 CDの交換会で入手したままきちんと聴かずにいたR・シュトラウス「イノック・アーデン」(Loreeさん出品)、たまたま買わずにいたような作品で、なんとなく興味はあったのですが、作らずにいたチャンスが思わぬ形で実現した気分。
 なにも音楽に限った話ではなく、興味がありつつそのまんま生きていることって意外に多いのではなかろうか。
 同作品は、確かグールドも録音していたと記憶している。グールド盤は英語かな。
 これはピアノと朗読の形態で進んでいく作品なのですが、ピアノが伴奏?のようで伴奏ではなく、かといって語りが完全な主軸ともいえない独特の世界。これ自分でできるかもしれないと思った。
 「小説が高貴か?音楽が高貴か?」と問いかける作曲家最後のオペラ「カプリッチョ」を思い出させ、「ああ、こういうのがシュトラウスだな」という気分になる。
 テニスンの「イノック・アーデン」は懐かしい作品で、岩波文庫で入江直祐氏翻訳で読んだのは高校時代で、ちょうど今ぐらいの季節だったのは、学校が嫌いでやめたくて登校を拒否し寒いのに銀杏臭い公園で読んでいたら、中学同級生の女の子にばったり会ってしまい、「学校行かなきゃ駄目じゃない。」と怒られたと憶えているから。
 改めて読み返すと、あの時小説だと思い込んでいた作品は完全に「詩」であることに気がつかされる。
 <妻と子供を幸せにしたいと思ったイノックが、独り海を超えて稼ぎに出かけて、10年後に帰ったら、家族は別の男と幸せに生活していた。>簡単に説明するならこんな感じで相当に悲劇的な作品ですから、学校に行きたくない少年が木枯らし舞う銀杏臭い公園でテニスンを読んでいる情景を想像すると、学校の前に病院に行ったほうが良かったのではないかしらんと思う。
 記憶の前後関係は曖昧なのですが、公園で会った女の子にショパンポロネーズを録音してほしいと頼まれたことがあって、2度カセットテープをプレゼントしたと思い出した。両方ともFMで録音した。最初のルビンシュタインはあまり心に響かなかったようで、次のギレリスで凄く感謝された。
 しかし、「学校行かなきゃ・・」とか言葉にしておきながら、どうして彼女は公園に来たのか不思議だけれど、同じようにサボっていたのかもしれない。流行っていたスタジアムジャンパーが懐かしい。