バイロイト音楽祭に違和感。

 
 FMで放送されていた「タンホイザー」を聴きながら色々と考えさせられた。
 総体的に良い音楽が構築されていたと思う。演出は2年目のセヴァスティアン・バウムガルテン。刺激的な表現で昨年はブーイングの嵐だったけれど今年のお客は何故か普通の反応。改定(妥協)したのかもしれない。
 指揮は昨年のヘンゲルブロックからティーレマンに変更になり、タンホイザー役もラース・クリーヴマンからトレステン・ケールに交代された。
 昨年の比ではない素晴らしい上演ということにしておきたいと思います。
 表題役は好みの別れるところだと感じますけれど、youtubeで聴けるクリーヴマンの冷静なアプローチに比べ、ケールのそれはかなり情熱的で一昔前の歌手を聴いているような気分。動画が公開されなければ判断が難しいけれど、どっちにしても最後まで確り歌えることは立派なもの。というのも途中で駄目になってしまった人達を沢山知っているから、歌手が歌う当たり前な状況に関心してしまう。
 ティーレマンの音楽は一般論としては起伏があってドラマティック、きっと素晴らしいのだと思います。
 
 今日で4日間続けて聴いてきて、今までにない奇妙な違和感があるのはどうしてなのか?答えが出ないからモヤモヤしているのですが、音楽祭の何か決定的な核が変化しようとしているように感じられてならない。
 誤解が生まれると嫌なので素直な気持ちを書くならば、オーケストラと合唱の質が低下したとは思っていないですし寧ろ素晴らしくなっているように思う。指揮者や歌手にしても一時の歴史のつなぎ目みたいな中途半端な印象は無くて、芸術的には進化しているように感じられる。(勿論好みの問題はありますがここでは次元の異なる話。)
 僕はワグナーが好きなので、音楽が進行している間は夢中になれてワクワクできるのですが、終わった後に本来やってくるべき感動がどこか希薄なのです。将来音楽祭に行きたい希望はあるのだけれど、あそこに行くだけの資質や器量を僕自身が持ち合わせていないような不安と申しますか、果たして誰かと喜びを共有できるのか?今年上演されていない「指環」と「マイスタージンガー」もひっくるめて全部の音楽が頭に入っているのに、非常に孤独な感覚なのは何故だ。
 こういうとき、吉田秀和先生ならスパッと的確な言葉を表白するのでしょうが、如何に自分が凡人なのか思い知らされる。
 
 答えが導き出せるか分からないけれど、明日の「パルシファル」で最終回なのでとにかく聴いてみますが、貼り付けた動画「マイスタージンガー」にもしかしたら答えが隠されているような感じがしなくもない。
 演奏と演出が素晴らしいとか変とか誰もが感じるでしょうし、最初から「人間は好む好まないに係わらずものを思う存在」(誰の言葉だっけ?)なのですが、世界中の彼方此方からロングドレスにタキシードのブルジョワばかりがアホみたいに集まってくる音楽祭ってなに?と考えてしまいますし、お客の全員が芸術を理解しているとは到底思えない。
 つまりバイロイトの社会的必要性そのものが希薄になっていやしないだろうか?ということ。
 2幕ラストで市民が陳腐なキャンベルスープを手に自由を謳歌する。ワルターの「優勝の歌」で手続きが完了するサインナップと引き換えに巨大な小切手をポーグナーエヴァが嬉しそうに持ち、パン屋のコートナーが馬鹿みたいな動きをして、ザックスはさしずめ秘密組織の会員か、最終場面でまともなのはベックメッサーだけかもしれない。それで泥と観客席から出てくるオールヌードの男女がアダムとイヴ(エヴァ)ではなかろうか・・とか色々考えてしまうわけ。
 でもウォルフガングまでの時代が理想的だとは全然思わないのは、保守的な考え方では未来は無いから。
 僕は心からカタリーナを支持したい。